松江城調査報告会(平成29年度)

更新日:2023年05月17日

松江城調査報告会レポート:平成30年3月25日(日曜)

松江市では、国宝松江城天守に関わる調査研究に継続的に取り組んでいます。
この報告会は、その現状を報告し、研究成果を新たな調査研究の進展につなげる目的で開催しています。第5回となる今回の報告会は、松江城天守出土の塩札、鳥取県米子市にある「米子城跡」の発掘調査成果、そして石垣から考える松江城というテーマで、3名の報告講演が行われました。

報告講演1

報告会にて講演を行う卜部吉博松江城調査専門官の写真

「松江城天守出土塩札について」では、卜部吉博松江城調査研究室専門官による、松江城天守の地階から出土した塩札について報告がありました。
まず塩札とは、江戸時代に田圃がない海辺の「浦」が、行政区画で言うと現在の「村」ですが、年貢を米で納める代わりに納めた塩につけられていた木簡のことであり、昭和の解体修理工事の際に天守地階から出土したもので、現在40枚が残っていることが報告されました。
そして松江藩の塩生産地は、『雲陽誌』によると島根郡、秋鹿郡、楯縫郡そして神門郡で生産されており、特に松江藩の「御用塩」は秋鹿郡にあった古浦で生産された塩を使っていたいたにもかかわらず、「古浦」と書かれた塩札は一枚もなく、すべて島根郡の地名が書かれていたことがわかりました。
そして40枚の塩札それぞれの内容についての詳しい解説がありました。
それによると、松江城天守出土の塩札には二つの種類があり、ひとつはおそらく生産地から松江藩に年貢として納められた際につけられたもの(1類)、もうひとつが天守内で塩を管理する際に使用したもの(2類)と考えられると述べました。さらに2類の塩札に書かれた年号と内容を解読すると、二年毎に少なくとも25俵の塩が天守の地下に更新されていた可能性があることが報告されました。さらに地元の研究者による松江藩の塩の生産についての論文を参考にしながら、松江城天守出土塩札から考察できることについて述べられました。
おわりに、松江藩の塩の生産に関する論文が少ないことなどから、今後色々なところから出てくる史料を調べることにより、いわゆる松江藩の税制も含めて、研究を進めていくことが課題であることを述べられました。

報告講演2

報告会にて講演を行う浜野浩美米子市教育委員会文化課学芸員の写真

「史跡米子城跡の発掘調査成果ー月山富田城から米子城へー」では、浜野浩美米子市教育委員会文化課学芸員による米子城の概要、近年の発掘調査および発掘調査で見えてきた月山富田城とのつながりについて報告がありました。

近世城郭としての米子城は、天正19年(1591)、西伯耆、出雲など12万石の領主となった吉川広家が海の活用を考え、中海に張り出した米子湊山(標高90.1メートル)に築城を開始したことに始まり、かつては山頂に五重の天守郭と四重の副天守郭(四重櫓)を持った壮麗な城であったといい、廃城後、建物は失われてしまいましたが縄張りに大きな改変はなく、石垣、縄張り等に往時の姿が良好に残されていることから、平成18年(2006)に国の史跡に指定されていることの説明がありました。

続いて、米子市教育委員会では史跡米子城の保存整備の一環として、平成27(2015)年度から、史跡内の内容確認調査を進めており、各年度ごとの発掘調査成果について報告がありました。その結果、米子城の縄張りは山頂部の本丸を中心にして、北側の内膳丸、東側の飯山には采女丸を配していたことは周知されていましたが、本丸南西の水手門下郭、南東の八幡台郭が新たに確認されたことにより、築城初期の段階で中海側の防御を重視していたことがわかりました。

また、中海側の防御ラインは石垣と郭で、特に遠見櫓から内膳丸にかけて設けられた登り石垣と本丸番所跡から北東麓の二の丸枡形にかけて設けられた竪堀で二の丸を防御したということが報告されました。さらに、竪堀から出土した宝寿小槌文の軒平瓦は、備前岡山城や月山富田城で出土しているタイプのものであり、吉川広家期のものと考えられていることから、この段階で湊山山頂に瓦葺建物が存在していたことが推測でき、築城初期の米子城の姿を考えるうえで非常に重要な資料であるとともに、山陰と山陽をつなぐ遺物としても重要な意味を持つということが報告されました。

報告講演3

報告会にて講演を行う乗岡実岡山市教育委員会文化財課長の写真

「石垣から考える松江城」では、乗岡実岡山市教育委員会文化財課長による石垣を通して松江城について考察する報告がありました。
お城に行けばあるのが当たり前の「石垣」は、一見すると全部同じ石を使った壁に見えますが、これには築城期以来の松江城の歴史が込められており、石垣をつぶさに観察することによって築城以来の松江城の歴史が見えてくると述べられました。
まず初めに石垣というのは、天守なら天守の、いわゆる城郭建築の土台を造っているものであり、城郭建築を軍事施設として見た場合でも、石垣と天守がセットになって初めて軍事的な役割を果たしていると述べられました。続いて、松江城の石垣には、江戸時代に石垣修理をされた際の新様式の石垣と、築城期(堀尾期)の石垣が混在しており、それらは石垣修理がされたことを示す江戸時代の絵図や文書から読み解くことができると報告がありました。
また、松江城の石垣の特徴を考えるときに、富田城をはじめとする同時期の城郭石垣と比較することで、さらにいろんな特徴が見えてくると述べられました。さらに同じ堀尾期の石垣でも、場所によって積み方や考え方に変化があるということがわかりました。それから、山陽側の城では一種類の石材で石垣が構成されているところ、松江城の堀尾期の石垣には見かけも違う三種類の石材(忌部石、矢田石、大海崎石)が同時に使われており、それが最大の特徴であると述べられました。
最後に「臨機応変の松江城」ということで、堀尾の石垣は時代遅れではなく、自然環境と石材に応じながら、それぞれの特徴を生かした良い石垣を築こうとしていることを述べられました。

資料ほか

この記事に関するお問い合わせ先

文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
ファックス:0852-55-5495
お問い合わせフォーム