城下町の造成と外堀としての米子川

更新日:2023年02月01日

  • 水田を埋め立てて城下町を造成
     宝暦年間(ほうれきねんかん)(1751年-1763年)にまとめられた地誌「雲陽大数録(うんようだいすうろく)」によると、中世において母衣町(ほろまち)は末次郷(すえつぐごう)(村)にあたり、田畑の存在を示す記述が見られます。この記述を裏付けるように、地表面の1.8メートル下から耕作時の足跡や畦畔(けいはん)などが発見され、かつては水田であったことが分かりました(下左写真)。この他、南田町からは旧地表面に生えていたヨシかガマの地下茎が確認されており、松江の城下町は水田や低湿地を埋め立てて造成されたことが考古学の面からも証明されました。
  • 外堀としての米子川
     米子町と母衣町を区切る米子川は、江戸時代の初めに外堀として開削された人工河川です。当初は石垣をもたない素掘りの堀であることが分かりました。石垣が築かれた時代は定かではありませんが、現在の護岸石垣の5メートル奥側から江戸時代の外堀石垣が発見されました(下右写真)。京極期(1634‐1637)に描かれた松江城下町絵図によると、外堀の川幅は19間(約36メートル)・深さ4尺(約1.2メートル)と記載されており、現在の川幅(約13メートル)よりもかなり広かったようです。
地面に足跡や畦畔などが残っている水田跡の写真
大小様々な大きさや形を下沢山の石で作られた江戸時代の外堀石垣跡の写真

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