大橋茂右衛門と与力

更新日:2023年02月01日

 江戸時代中期の延享年間(えんきょうねんかん)絵図(えず)をみると、南田町には松江藩の筆頭家老(ひっとうかろう)である大橋茂右衛門(おおはしもえもん)の広大な屋敷があったことが分かります。大橋家は、縁故のあるものを与力として採用し、敷地内に複数の与力屋敷を構えていました。
 調査では礎石(そせき)や掘立柱(ほったてばしら)といった与力の屋敷跡とともに、土人形やキセル、寛永通寳(かんえいつうほう)(下左写真)や多数の陶磁器が発見されました。中でも注目されるのが大橋伊左衛門の与力屋敷から発掘された直径6センチメートルから8センチメートルほどの鉄球です。(下右写真)「鉄丸」(てつまる)と呼ばれる火難除けの祭祀具であり、同様のものが出雲地方を中心として発見されています。また、床下に多数の銭貨を撒く「撒銭(まきぜに)」というおまじないを行う与力屋敷や鉄片を入れた桶を埋める与力屋敷など、今では行われなくなった祭祀の一端を知ることができました。
 与力とは上級家臣を寄親(よりおや)とし、その指揮下に属した武士のことをいいます。かつてはここに大橋茂右衛門の与力屋敷があり、その名残として「与力町(よりきまち)」という名称が残っています。

中央に四角い穴、漢字と漢字の間に丸い穴が1つずつ空いている寛永通宝の写真
火難除けの祭祀具の鉄球を手のひらにのせている写真

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