井上先生コラム

更新日:2023年02月01日

中世神社としての諸特徴を合わせ持つ「出雲国二宮」佐陀神社

井上寛司(中世史部会長・編集委員長)

佐陀神社境内の遠景写真

(上の写真:佐陀神社)

 中世の松江市域には、歴史的に見て全国的にも極めて重要な位置を占める、個性豊かな多数の有力神社が存在している。

その最も代表的な一つが佐太(さだ)神社(以下、中世の表記に従って佐陀神社とする)である。中世を通じて大きくそのあり方を大きく変化させ、またその全体を通じて、現在は見られない、中世社会特有の種々の諸特徴を合わせ持つことが、その代表とされる所以である。まず、歴史的な変化という点では、平安末期の古代から中世への移行期(=中世社会の成立期)と中世末の戦国期の二つの画期が注目される。

 古代から中世への移行に伴って、佐陀神社は大きくそのあり方を変化させた。古代には佐太御子神(みこがみ)一座を祭る秋鹿郡内の神社(「風土記」では佐太御子社、「延喜式」では佐□(陀)神社)であったのが、中世には島根・秋鹿両郡にまたがる安楽寿院領荘園(佐陀荘島根方と同秋鹿方)の荘園鎮守として、佐太御子神とその父母神の三神を祭ることとなり、社殿も現在見られるような三社殿構造へと転換した。南北朝期の応安2年(1369)10月に作成された、祭神に供物を捧げるための御供台(ごくだい)が三台セットで残されているのも、これを裏付けるものといえる(下の写真。「史料編中世1」口絵掲載)。

佐太神社所蔵の黒塗供御台三台の写真

 中世への移行に伴う変化では、右に加えてさらに三つのことが重要である。一つは、農事暦に対応する年中行事とその祭礼の体制的な整備・確立が図られたことである。毎年特定の日を定めて祭礼を行うことによって、農業を中心とする社会的生産や社会生活そのものにリズムを与え、そのスムーズな運営を促そうとする年中行事が、各寺院・神社ごとの多様性を持って調えられていくのは、中世社会への移行に伴う全国共通の動きで、佐陀神社の場合、4月と10月の2回にわたって、同じ内容の神迎え・神送り神事(=神在祭)などが行われることとなった(「通史編」第5章表3参照)。

 第二の変化も、この佐陀荘全域に及ぶ年中行事体制の成立と表裏一体の関係にある。それは、年中行事の祭礼に要する費用を佐陀荘を構成する徴税単位である各名田(みょうでん)に割り当て、その徴税責任者である名主(みょうしゅ)に納入させる体制が整えられたこと、そしてこれを踏まえて、名主層の一部を佐陀神社の神官に取り込んでいったと推定されることである。

 中世佐陀神社の神官(次に述べる寺僧を除く)の構成は未だ明確でないが、神主や別火・祢宜(ねぎ)あるいは神子(みこ)など、常時社内にあって社務に携わるいわゆる専業の神官と、高野祝・三井祝(はふり)・小林祝など、日常的には村落の中にあって、祭礼の際のみ佐陀神社の神官として機能する準神官的な祝との、基本的に二つの階層によって構成されたと考えられる。そしてこの祝の中には、名田の名主の他、末社の神官(神魂祝・八上祝・森社祝など)や特殊な職務を担当する神官(旧殿(ふるどの)祝・御盛祝・五霊会(ごりょうえ)祝等)など、多様なものも含まれていた(拙稿「佐陀神社における『神在祭』の成立」、島根大学研究成果報告書『佐太神社の総合的研究』、1991年)。

 変化の第三は、神仏習合の展開である。仏教や僧侶との緊密な関係そのものは奈良末・平安初期まで遡ると考えられるが、それが目に見える体系的な形で調えられたのは、やはり中世への移行に伴うものであった。具体的には次の四点が指摘できる。一つは、各祭神の本地仏(ほんちぶつ)が定められるとともに、それを祭る仏教施設(神宮寺)が神社境内に創建されたことである。創建時とは若干の変更があるかも知れないが、明応2年(1493)の佐陀大社縁起(『史料編中世2』755号(以下のファイルリンク参照))では中正殿は薬堂、北社は経所(きょうしょ)、南社は常楽寺がそれぞれの祭神を祭る神宮寺だと記されている。

 二つには、年中行事の中に仏事が含まれていて、神事と仏事を合わせ執り行う仕組みとなったこと、そして三つには、これに対応して佐陀神社の社官も神官と寺僧の両者によって構成されるようになったことである。さらに四つとして、佐陀神社と一体的な関係を持つ寺院として、神宮寺とは別に、報恩寺・願力坊などの別当寺が佐陀神社の内外に登場したことである。そうした寺院は、実際にはもっと多かったのではないかと考えられる。

 以上に指摘した諸特徴は、基本的には中世を通じて維持されたと考えられるが、しかし中世から近世への移行が始まる戦国期に至って大きな変化が生まれることとなった。その主な論点として、次の四つを指摘することができる。

 第一は、世俗の政治権力である戦国大名が公然と宗教勢力の内部に介入し、規制と統制とを強めたことである。その先駆となったのは尼子経久による佐陀神社への参詣で、享禄2年(1529)以来数回にわたって行われ、それを機に護摩(ごま)堂・阿弥陀(あみだ)堂・釈迦(しゃか)堂などの仏教施設が次々と境内に建立されていったとされる。これは、「法華経による領国・一国統合と平和実現の希求」という、尼子経久(あまごつねひさ)の掲げたスローガンを具体化したもので、中世を通じて並列的な関係にあった寺社勢力への支配と統制が強まったことを意味していた。

 しかし、それは単に外から一方的に強制されたというのでなく、社会構造の変化やそれに伴う矛盾の拡大の中で、神社自身が強く求めたことによって生まれたものでもあった。すなわち、神社のあり方そのものが大きく変化した、これが第二の論点で、戦後期大名の政治的介入は一層それに拍車をかけることにもなったのであった。

 戦国期における佐陀神社の変化は、次の三点において確認することができる。一つは祭神の転換である。戦国期になって新しく作られた明応2年の縁起書によると、佐陀神社の祭神は天照大神とその父母神伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)とされていて、佐陀地域住民の地域的な信仰対象であった佐太御子神とその父母神とは全く異質なものに変化している。二つは祭礼構造の変化で、かつての4月と10月の2回の佐陀荘としての神迎え・神送り神事に代わって、全国から神々が寄り来る祭として10月の神在祭がとりわけ重視されることとなった。この祭礼構造の変化とも関わるが、三つには、戦国大名尼子氏の命に基づいて、島根・秋鹿両郡のみならず楯縫(たてぬい)郡や意宇(おう)郡など多数の郡の神官たちも参加して行われる8月25日の御座替(ござがえ)神事が新しく成立したことも重要である。要するに、これは佐陀神社が佐陀荘民たちにとっての地域的な信仰対象(=荘園鎮守)から、広域的で普遍的な祭祀・信仰対象へと転換したことを意味するもので、祭神の転換はまさにこれに対応するものであった。

成相寺本堂の外観の写真

(左写真:成相寺)

 戦国期における変化の第三は、従来の神宮寺と別当寺に加えて、新たに真言宗の古刹成相寺(じょうそうじ)との一体的な関係が生まれたことである。延林山成相寺は古来島根半島における蔵王(ざおう)信仰の重要拠点として賑わったところで、佐陀荘や佐陀神社と肩を並べる独立した有力寺院として、室町時代には守護京極氏の祈祷所(きとうじょ)にも指定された(「史料編中世2」五〇三)。それが、戦国期の尼子・毛利氏時代には佐陀神社と緊密な関係を持つようになり、正月1日から5日の間、佐陀神社の社僧として、同社の経所に出仕して祈祷を行うこととなった(『史料編中世2』1079号)。そうしたことから、これ以後成相寺は佐陀神社の「奥の院」とも呼ばれ(『史料編中世2』2155号)、神宮寺や別当寺なども成相寺の末寺として扱われることにもなった。これは、中世出雲国の一宮(いちのみや)(国鎮守)杵築大社とその本寺(ほんじ)とされた浮浪山鰐淵寺(ふろうさんがくえんじ)との関係と極めて酷似しており、それぞれ自立した寺院と神社が相互補完的な形で機能する、「神仏隔離の原則を踏まえた神仏融合」の最も典型的な一例と評価することができる。

 第四の変化は、この時期の佐陀神社が出雲国二宮(にのみや)(年月日未詳の延喜式裏文書、天理図書館所蔵文書、天理図書館善本叢書一三)と呼ばれたことである。「二宮」とは、「出雲国の国鎮守(一宮)に次ぐ、国中第二位の勢力を誇る有力神社(=杵築大社に次ぐ勢力を誇る第二の国鎮守)」のことで、石見国(中世を通じて一・二・三宮が存在した)などと異なり、もともと出雲国には二宮以下は存在しなかった(それ故、「一宮」の呼称も存在しなかった)のが、戦国期に至って新しく登場したのであった。

 この佐陀神社の出雲国二宮化が、祭神の転換や御座替神事などの広域的祭礼体制の成立、あるいは本寺成相寺との一体的な関係など、戦国期に起こった佐陀神社の大きな変化と表裏一体の関係にあったことはいうまでもない。そしてそれは、佐陀神社が尼子氏権力と結んで、あるいは尼子氏権力側の思惑と強い働きかけによって起こったことでもあった。

 佐陀荘の荘園鎮守から出雲国二宮へと至る、中世の佐陀神社が刻んだ歴史の歩みは、全国的にも例を見ない極めて特異なものであり、それだけ注目すべき多くの問題が含まれていることに、改めて注意する必要があるといえよう。

この記事に関するお問い合わせ先

文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
ファックス:0852-55-5495
お問い合わせフォーム