調査コラム
令和2年(2020)4月より書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」、今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。
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第57回「内田文恵オーラル・ヒストリー(1) 島根県立図書館時代の郷土資料へのとりくみを中心に(前編)」
談:元松江市史料編纂課主任編纂官・内田文恵
インタビュー、文責:史料・埋蔵文化財課文書館準備係
2026年6月29日公開
はじめに
当課は平成20年(2008)4月1日、『松江市史』編纂を目的とした「松江市教育委員会文化財課史料編纂室」としてスタートしました。その後、「歴史まちづくり部史料編纂課」として独立、さらに「文化スポーツ部史料調査課」「松江城・史料調査課」を経て、令和8年(2026)4月1日、「史料・埋蔵文化財課文書館準備係」となりました。令和9年3月の「松江市文書館」開館に向け、準備を進めているところです。
さて、松江市域における郷土史研究のあゆみを考える上で、当課成立以前に長らく重要な役割を果たしてきたのは、島根県立図書館郷土資料室だったと言えます。当課にも所属しておられた内田文恵さんは、その草創期から発展期に同館司書として勤務し、郷土資料の担当として力を尽くしてこられました。郷土資料刊行や郷土史研究会の事務局を務めるとともに、ご自身も様々な著作を残されています。そして、その過程で築かれた知識・調査力・ネットワークは、松江市史編纂事業でも大いに活かされることとなりました。
こうした内田さんの足跡をぜひとも記録に残してもらいたいのですが、ゼロからご執筆いただくとなるとご負担も大きくなりますし、我々後輩からご本人に直接うかがってみたいことも沢山あります。そこで、内田さんへのインタビューを録音して文章化したものに加筆修正いただく、というかたちで原稿を作成することとしました。そう、「オーラル・ヒストリー(口述記録)」をやってみることにしたのです。
最初の聞き取りは令和8年2月7日、2回目は2月27日、松江市立中央図書館の2階ラウンジに内田さんと当課担当職員が集合して行いました。今回はそのインタビューから、島根県立図書館時代の郷土資料へのとりくみを中心に採録します。
内田文恵(うちだ・ふみえ) 略歴
昭和24年(1949)、小学校教員で郷土史家の内田兼四郎(1917-1984)、道子の次女として松江で生まれる。父の異動に伴い、隠岐、仁多、松江で育つ。昭和44年(1969)、国士舘短期大学卒業。昭和47年(1972)より33年間に渡り島根県立図書館司書として勤務した後、3年間、松江工業高校で学校司書を務める。平成20年(2008)より松江市史編纂事業に従事、事務局実務を中心的に支え、令和2年(2020)3月、『松江市史』全18巻の完結を見届け退職。現在も竹島問題研究会委員等として地域研究に寄与している。
【写真1】インタビュー当日の内田文恵さん、2026年2月7日
1.島根県立図書館就職と県庁の「古文書」
―お久しぶりです、本日はよろしくお願いいたします。まずは、内田さんが島根県立図書館に就職される前後のご様子からお聞かせ下さい。
東京の国士舘を卒業した後、最初は昭和45年(1970)6月に臨時職員として島根県立図書館に入って、昭和47年(1972)に試験があって、8月に正式に司書として採用になりました。そして、臨時職員時代から続けて昭和48年(1943)3月まで、当時は図書館の嘱託をしておられた櫻木保先生(注1)と一緒に、その頃は引継ぎ文書と言ってたけど、県庁の郷土資料の移管作業をしました。
―櫻木先生については後ほどまた詳しく伺いますが、郷土資料移管前後の状況について聞かせて下さい。
私が入った時はもう県立図書館は新館になってたけど、その前、昭和43年(1968)に『新修島根県史』全11巻の編纂が終わって、同じ年の10月に図書館の新館落成式があって、その時既に県の「引継ぎ文書」と言われるものを図書館に移管するってことが決まってて、昭和44年(1969)には作業が始まってたの。
『新修島根県史編纂余禄』(注2)に県史関係の先生方と県関係者の人たちの回顧録や座談会などが載ってるんだけど、その中で、どの先生方も「郷土資料を収集、収蔵し、管理運営していく施設が必要だ」と、言葉に多少の違いはあったけど、ともかく今の状態ではダメだということを書いたり、話したりしておられる。それに答えるように、県史編纂全体の長だった森広厚造総務部長が、「史料の重要性を認識している」として、今度オープンする新館の県立図書館がその役目を、充分とは言えないけれど、保存と管理、一般利用も果たしていき、その状況によって今後を考えなければならない、と答えている。
【写真2】『新修島根県史編纂余録』より関係者座談会
そして、その新館のオープン前には、田村清三郎(注3)さんが次長として県立図書館(以下、県図と略)に赴任しておられて、田村さんは文書館的役割を県図に想定されてたみたい。
―田村清三郎さんは『明治初年の県政』を書かれた方ですね。
けど、図書館と文書館では、似てるようだけど、やっぱり役割は異なっているのよね。それを後々、私は知ることになるわけですよ。郷土資料担当の司書として、多くの利用者のニーズに出会ってね。
―県の「引継ぎ文書」に戻りますが、これは具体的にどんなものだったのでしょうか。
まずは「島根県史編纂資料」―旧版『島根県史』が昭和5年(1930)に全9巻で完成したけど、その編纂のために、県が大正時代から全県下の寺社文書、名家・豪農などの資料を謄写・筆写した資料ね。逆に、その後の『新修島根県史』の時に収集した資料は所蔵者に返還されてしまって全く残ってなくて、後で知ってびっくり。まあ、担当された先生方は思い残しが多くあっただろう、と私は後々先生たちの話を聞いて知ったわけですよ。
次が、今の島根県域にあった藩が明治初期に県になってからの行政資料―「皇国地誌」とか「島根県歴史」とかね。少ないけど広瀬・母里・浜田・大森・津和野などの資料もあって。それと、なぜか残っていた松江藩の資料ね。県庁では、これらを行政文書とは別に、「古文書」って名称で別置してあったの。
―その「古文書」というのは当時どこにあったんですか?
昔の県庁の書庫、知っている人この中に…いませんね(笑)。図書館側からの入口を入って、エレベーターのところを行くと、地下の売店へ降りる階段があるでしょ、で、そこを降りると右側が売店、その奥が食堂、そしてエレベーターがあって、その頃は左側に散髪室があったの、今はないらしいけど。その隣に授乳などもできる女性休憩室っていうのが設けてあった。その先へ行くといわゆる「焼き場」、焼却炉があったのよ。そのさらに奥に重いドアがあって、そこがかなりのスペースがある県庁の書庫になってたの。
―県庁の地下に書庫があったってことですか?
地下書庫。それもすぐそばに焼却炉があって、びっくりでしょ。「ひどい、有り得ないところ(の書庫)だ」って先生達がみんな言っておられた。そこには行政文書なんかも積んであって、県庁内の焼却物も一緒にボンボン焼いてるから、「あ、なんか今焼いた匂いがする」とかって。
それで書庫に入ると、右側の方に「古文書」って書かれた下げ札がかかっていて、左側に現用公文書があるの。で、その「古文書」の方を県図に移管するということになっていて、ここはきちんと整理されていたの。この作業をされたのが、先ほども名前の出た田村清三郎さん。田村さんが県庁総務部広報文書課勤務の時に『島根県庁蔵郷土資料目録』を作られてたの。
【写真3】『島根県庁蔵郷土資料目録』1956年8月刊
―なるほど、そういう順番だったんですね。
でも、私がこの引継ぎ作業に関係し始めた時には、田村さんは不慮の事故でもう亡くなっておられた。田村さんに会って話を聞いてみたかった、とこれもまた後々思ったものですよ。
―なるほど、櫻木先生と内田さんが従事されたのは、田村清三郎さんが整理してきた県庁所蔵の郷土資料を、県立図書館の新館に引継ぐ作業だった、ということですね。でも、その時には田村さんは既に亡くなられていた、と。
引継ぎ文書の目録は、後でこれ(内田文恵・藤岡大拙編「島根県立図書館所蔵郷土史料目録」、地方史研究協議会編『山陰-地域の歴史的性格』雄山閣出版、1979年、pp.357-422)に収録したの。この雄山閣の本は、昭和52年(1977)に松江市で地方史研究協議会の28回全国大会が開かれて、共通論題「山陰―歴史と生活―」の発表や報告をまとめたもので、その中に掲載したの。番号は、県図へ移管してからの所蔵番号。
中世資料と近世資料については県図へ移管したもの全部を載せました。近代資料としては、初期の県史や、日誌、官員履歴、皇国地誌、藩政期の神社明細帳、寺社明細帳などは載せられたけど、そのほかの明治初期資料は膨大過ぎて載せられなかったの、残念。これらは今、島根県公文書センターや県図で閲覧できるけど、活字になってて誰でも見られる近代資料目録っていうのはないのよ。
で、(目録下部の3段になっている)この番号を、櫻木先生と私で付けたの。まず時代別に中世・近世・近代に分けた上で、1段目は地域別の番号で、島根全域は0、1を出雲、2を石見、3を隠岐、その他は4、としてね。中世・近世の家文書については、家名の一字を1段目の番号としたの。例えば、出雲大社北嶋家文書の1段目は「北」、鰐淵寺文書は「鰐」、春日家文書は「春」、朝日家は「朝」のようにね。それで、2段目は資料の内容別番号、3段目は1段目・2段目に連動するシリーズ番号って風に。
【写真4】「島根県立図書館所蔵郷土史料目録」
出雲大社北嶋家文書とか鰐淵寺文書とか、その他の名家の資料でも、今はもう原本がないものとか絶対に出されないものがあるから、筆写とか謄写であっても、今となってはすごく貴重ですよ。県図では今、中世文書の謄写本・筆写本は閲覧禁止のはずだけど、私たちの時代はすぐ出してあげてね。そのせいで傷みがひどくなって、いつだったかな、マイクロ(フィルム)に撮って出すことにして、謄写本・筆写本原本は閲覧禁止にしたんだけど、やっぱり原本を見たいっていう利用者が多くてね。
2.櫻木保先生の思い出
―櫻木先生と引継ぎ作業にあたられていた頃、内田さんはおいくつだったんですか?
21歳かな。昭和45年に入ってから48年3月までの約3年はこれにかかりきりで。
―すごい、そんな若さで! 具体的にはどんな作業をされていたんですか?
県庁から運び出された資料は、当時、乃木福富にあった島根女子短大の広い講堂に運ばれてね、その資料を講堂中に広げて曝書(ばくしょ)したの。曝書って知ってる? 本格的な曝書はもう図書館ではしてないよね。最近は「蔵書点検」っていう休館期間。でも、曝書っていうのは本来、6月から7月の頃、本や巻物を湿気や虫から守るために陰干しして、風を通すことだった。保存環境が充分ではなかった県庁引継ぎ文書は、全部この曝書が最初の作業だったの。私は6月からの臨時採用だったので、ちょうど曝書の季節で、その作業から始まったわけ。
講堂は風が通って、西陽が少し入ったけど、木々に囲まれてて、涼しいところだった。広げた本を端からパラパラとしゃがんでめくるの。「広げただけだとその部分だけの曝しになるから、めくりなさい」と櫻木先生の指示でね、バイトの島大生とせっせとやったの。「こんな本があるんだ」なんて思いながら。
それが終了したら、県図に持ち帰って燻蒸作業があった。曝書終了後の資料を燻蒸機に入れて薬剤を注入して、翌朝出して完成。殺虫のため。それから資料を1点ずつ『島根県庁蔵郷土資料目録』と照合して分類、台帳記入して、ラベル添付などの装備に入る、という手順。燻蒸機は大きなハンドルだったから、開けたり閉めたり、それから史料を奥から整然と積み上げて入れなくてはならないし、ちびの私は台座に乗って機械に頭を突っ込んでやったんだ。かなり力持ちになったわね。
それからね、私の家が短大の近所だったから、時々母がアイスなんか差し入れしてくれたりしてね。半世紀昔の話。
―結構楽しそうですね(笑)
この間に、私は文書を読む勉強をしたの。櫻木先生から毎日文書のコピーを渡されて「家でこれだけ読んでおいで」って初心者向けの村方文書なんかを渡されて、家で一生懸命それを読んで、次の日に先生に添削してもらうの。おかげで、少々なりとも御家流の村方文書は読めるようになった。その時、先生は「字が分かっただけでは読めたことにならない、必ず声に出して読んだり書いたりしなくては」って言われたの。大学で歴史を学んだ人はこの辺はクリアしてるでしょうけど、私は何せ国文学だったからね。でもこの音読は大切だと思ったわね。
県図の「古文書を読む会」の講座は昭和44年(1969)から藤岡(大拙)先生、藤澤(秀晴)先生が講師として始められたんだけど、これは郷土資料の担当業務で、櫻木先生も初級講座の講師をしておられたからか、「こればかりじゃダメだから、古文書の基本から知らなくては」と言われて、昼休み、勉強に『古文書学入門』(佐藤進一著、法政大学出版局、1971年)を読みだしたの、声を出してね。昭和47年(1972)からだった。
その時、「今、古文書って誰もが言うのは本来の古文書ではない。〈古文書〉と言うのは、厳密に言えば、誰から誰への意思表示のために書かれたもので、日記、著述物や記録物、編纂物、備忘録などは古文書と言わないんだ」とか、基本的なことを知った方がいい、と言われたのよね。
今思えば厳密な考え方で、あれは櫻木先生の根底に、朱子学の「性即理」の原則を重んじる考え方があったからだったと思うの。人間は理性で動くものだ、と「性即理」をよく言っとられた。(歴史学を専攻した人には)当たり前のことを私が知らないので、教えてやろうという助手教育だったと思う。とてもためになった。コツコツ昼休憩のわずかな時間だったけどね。古文書入門本は2冊読んだかな。
それで昭和49年(1974)になって、「次は中国思想史を読もう、漢文漢詩を勉強すれば役に立つから」って言われたの。これは先生が昭和63年(1988)に県図の嘱託を辞されるまで続いた。その頃は昼休憩が取れなくなったりしてたから、週2回くらいだったかな。中国思想史は、櫻木先生には、すごく思い入れのある学問だったのよ。
先生は県職では土木技師で、最後は松江土木事務所長で退職されたんだけど、その職員時代に、八束町書庫に眠っていた大量の文書、記録を発見されたの。それを基にして『中海江島新田の開発』(八束町、1963年)という本を出されて、そのほか『簸川新田の開発』(鴇山房、1965年)、『松江藩の地方役・岸崎左久治』(島根県土地改良事業団体連合会、1967年)など発表しておられるの。県図からの出版物も多くあるのよ。ちなみに鴇山(ほうざん)は先生の号。
櫻木先生は嘱託退職後も、通勤してるみたいに毎日県図に来られてた。閲覧室に定位置があって、何かというとみんなが頼りにしてその席に聞きに行ってね。でも、櫻木先生も平成12年(2000)に故郷の千葉へ転居されて、おられなくなったの。私が何より思ったのが、先生の学識をそのまま保存して、必要な時に引き出せる装置はないかなって。
―櫻木先生という人は、すごい知識人だったんですね。
これも櫻木先生に誘われて、島根大学におられた中国文学では著名な入谷仙介先生の研究室で、一般の人対象に「漢詩に親しむ講座」が開かれていて、これにも月2度だったけど参加してたの。入谷先生は中国語が堪能だった。先生ははじめに必ず中国語で詩を読まれて、李白や杜甫、王維、白居易、陶淵明などの詩は日本語で聞くより音楽みたいだった。主に王維と陶淵明が教材だった。
それからね、櫻木先生は中国への贖罪とは直接言われなかったけど、私が出会った頃、中国語を勉強しておられたの。「満州にいた時は、いい加減な満州語で話すのを、現地の人が日本語も使って理解してくれるのを当たり前だと思って過ごしてた」と、よく話しておられたのよ。
昭和47年(1972)に日中国交正常化が成立したでしょ、それから島大に中国人留学生が来るようになってね、入谷先生の研究室へ頻繁に行っておられた櫻木先生は留学生とも親しくなって、先生の方は若い留学生と中国語で語り合いたいって思って話しかけるけど、留学生の方は、逆に先生との会話で日本語を学びたいと思ってたのか、「中国語で問いかけても日本語で答えるからね」って笑っておられた。
そのうち、県図へも留学生のR君やS君が来るようになって、職員とも仲良くなったの。それで、親しくなった女性たち、その頃の県図は若者ばっかりで、数人で彼らの下宿で中国料理をご馳走になったりして、何回か休日におにぎりとか、ちらし寿司、いなり、から揚げとかそれぞれが作ってきて遠足に行ったりしたな、車2台で。その時、先生は来られない。海苔は苦手だと言ってたS君には、学校が休みで一時帰国して戻ってきた時に、父親が印鑑を造るから「これ、お土産」といって私の姓名を篆刻彫刻した印鑑をもらったのよ。今も使ってる。
国交正常化されて9年もたった昭和56年(1981)に、中国残留孤児の調査が始まったの。その時、櫻木先生が「やっとか」って言われたの覚えてる。そして、日本人残留孤児と確認された人の日本への帰国が始まったの。櫻木先生は退職されても県図の定位置で一日中イヤホンを付けて中国語を勉強しておられた。そして平成12年に故郷の千葉へ帰られたけど、その頃、残留孤児だった人の帰国が始まってたの。先生からの便りで「帰国した人からの聞き取りなどで、中国語が出来る人の募集があって採用され、代々木センターへ通って通訳してる」って来たのよ。すごいなーって思って、「いよいよ、役に立ちますね。頑張ってください」ってエール送るだけ、私は。
そして、こっちでは平成元年(1989)6月4日の天安門事件で、島大でピケを張った沢山の学生の中から留学生が見つけられて、中国当局からの摘発が始まってて、S君もR君も新聞でピケの状況写真が掲載されてたから、島根にいられなくなったの。夜、S君から「僕、これからアメリカ逃げる、元気でね」って電話があったし、R君は大阪へ行った。これらは郷土資料に関係ない話だけどね。
―櫻木先生がいたからこそ、入谷先生、中国人留学生へと交流が広がっていったんですね。
そう、でも、入谷先生も後に山口大学へ行かれるし、櫻木先生も千葉へ帰られたんだよね。中国思想史も漢詩の勉強も、今までにない、すごい、私には宝物みたいな知識なの。でも、全部は残ってない。時々これらを絞り出して活用させてもらったと思うけどね。
櫻木先生については満州での体験や、捕虜時代のことなども併せて聞き書きを残しておかなくちゃってずっと思ってるんだけどね。なかなかとりかかれない。でも、ここで少し話せたから。
それから、藤岡先生も昭和47年(1972)から県図に来られてたから、お昼休みには古文書を学びたい人が集まって、教えてもらったの。昼休みの間、15分でお昼を食べて、残り45分で古文書を読む会をしてたの。藤岡先生もよく付き合ってくださったと思う。遅くとも30分には勉強場所で待ってなくちゃいけないから早く行かなきゃって。藤岡先生はそうでもなかったけど、櫻木先生は座って待っとられた(笑)。私は一回も欠かさず出たけどね。
3.郷土資料室開設の前後
―島根県立図書館の年報にある「沿革」によると、「郷土資料室」が正式に開設されたのは昭和53年3月となっていますが、その前後の様子を聞かせて下さい。
引継ぎ文書が終了した後、私はすぐ奉仕課の「郷土資料担当」になったの。その頃はまだ「係」でも「室」でもなくて、「担当」だった。2階の資料室兼学習室の一番奥に郷土資料書架があって、カウンターもあったの。郷土担当は1人だったけど、臨時職員が補助でついて。新資料のラベル貼りなどの装備とかカード印刷とか、担当者が書庫に行っている間やレファレンスで動き回ってる時はカウンターに付いて。接客とか郷土資料の貸出はしなかったけど、一般図書の貸出、返却は郷土カウンターでもしていたし、一般レファレンスもあったから。
それから、正式な郷土資料の補助司書になっていったの。「古文書を読む会」の担当にもなってて、テキスト作りから講座の受付、レファレンスも増えて行ってね、凄く忙しくなってたの。日常は資料選定して、その頃はまだコンピューターの導入前だから、資料の分類をして、台帳に記入して、カード目録を作成して、装備、配架などの作業があった。司書だからね。
資料課っていうのが別にあって、通常の本の入力業務―全館の本、雑誌、その他寄贈書などすべての分類、カード作成については資料課の業務だった。だけど、郷土資料は郷土担当が全てすることになっていたんで大変だった。その頃は、奉仕課のカウンター業務、レファレンス業務より、資料課の分類、カード作成業務が司書の本筋とされてた時代だったのよ。
その後、コンピューターが導入されて、資料の管理はもちろん、検索なども充実していったっていうわけ。何しろ33年間も同じところで勤務したんだから、色々と変化があったのよ。ワープロがこなせるようになったら、次はパソコンを使うようになって、その進化にもついて行かなくてはならない。
閑話休題。県図の臨時になる前は、県庁の農林部農地開拓課の臨時だったの。その頃の月給いくらだったと思う? 今聞いたらびっくりする金額だったんだから(笑)。県庁で臨時の時期は1年半ばかりだったけど、ガリ版で字を書いて、それをローラーで印刷して資料作りをしたり、課に来た書類の封筒を丁寧に広げて裏返して、貼り付けて新しい封筒作りも仕事だった。もったいないからとの庶務の女性主事さんに言われてね。今でもこれはなかなか良い案だと思う(笑)
私は、事務仕事はこれからガリ版の時代じゃないから、と夕方タイプを習いに行ってたの。でも、タイプもね、県庁にタイプ室があって、大勢のタイピストさんが各課、各局から持ち込まれる正式書類を打っておられた。カチャカチャカチャって。そのタイプ室へ書類作成を頼みに行くのも臨時さんの仕事。よく「字が分からない」って返されたのを担当さんに訂正してもらうのに、階段を何回も降りたり上がったりしたわね。庁内電話で話してくれればいいのにと思ってた。でも、女性の花型職だったタイピストさんもタイプ室も人員整理でなくなったのよね。もうワープロ時代に入ってたからね。
臨時採用の人は「22条さん」なんて事務でいう人もいたの、初期の頃はね。22条って県の規則に載っている臨時採用の項目番号だったの。私もはじめは22条さんだった。この言い方はイヤだったな。
―そして「郷土資料室」が正式に開設されるわけですね。
名称が「郷土資料担当」から「郷土資料室」になったのは、昭和53年(1978)の3月だけど、それは、2階から学習室をなくして1階に集中させるっていう館内の大編制変えだった。2階は、次第に増えていく蔵書の配架を増やして、その際に、一番奥に位置していた郷土資料も開架書架を増やして、郷土資料が占める場所が広くなったことで「室」の名称が付いただけで、「係」になるとか独立したわけではないの。後でちょっとの間だけ「係」にはなったけど、職務内容、人員は「担当」の時と同じよ。それでまた後には一般レファレンスと、郷土レファレンスが一緒になったみたい。
郷土資料室の場所は、階段を上がって一番近い部屋が入り口になったので、お年寄りの来館者には喜ばれたのよ。担当者も、書庫へ行くのが近くなってずいぶん助かったわね。歩くのが倍以上違ったから。
その後、昭和55年(1980)だったかな? 誰もが受講しなればいけない司書の研修が東京であるんだけど、その司書研修に行ってた時、突然、係長から電話があって、「館内異動が決まったので、研修から帰ったら中央カウンターで貸出・返却、資料の出納と一般レファレンス担当に代わるから」って言われたの。郷土担当も奉仕課の一部だったし、私は長く、8年くらい郷土担当だったから、しょうがないやって思ったけど、研修中に電話で告げられるなんてね、びっくり。
で、その後の郷土資料担当は北村久美子さんに代わったの。彼女とはその後も一緒に古文書の勉強や、資料調査などではコンビで活動したんだよね。彼女は文書も読めるし、資料の環境整備、保存処理などに詳しくて、私は絶えず頼りにしてた人だった。
―北村さんも、図書館退職後に当課に来ていただき、大変お世話になりました。
私が定年まであと4年残して、平成17年(2005)4月に松江工業高校の学校司書として県図から転勤した後も、彼女が後をやってくれて嬉しかった。まあ、その時のあれこれは、逸話ででも語れればね(笑)
4.郷土資料担当の頃のあれこれ
―郷土資料担当だった頃の、印象に残っていることなど教えて下さい。
その頃は朝、私がまだ出勤する前、6時過ぎに浜田や江津の人から家に電話がかかってきてね、「あんた、今日出勤かね?」って。「出勤です」って言うと「何時に出るかね、遅番かね、早番かね?」って(笑)。それで出勤の時間にあわせて、その江津の人とかは汽車で出てこられて、行ったらもう待っとられるの。それで話を聞いて、資料を出してあげて、時には「ちょっと読んでくれないか」と言われたしてね。自分で地域史を書いたりしておられる人だったけど。
その他にも、「自分の地域の名家が無住になってて、高台にあって集落の人の目が届かかないから、蔵のものがごっそり盗まれたりしてる。もう文書や本しかないけど、調べて引き取ってくれないか」みたいな相談もあって、その家へ調査に行って、寄贈や寄託として引き取ったり、「うちの文書だけど見に来てくれんか」とかの依頼も沢山あったの。それで各地に調査に行って…。多かったのは石見部の方からだったと思うわ。
今なら許されないけど、当時私は自家用車で行っててね。依頼者の話を聞いてから行くかどうか決めるんだけど、近世とか明治以降が大体多かったのよ。でも時々、複写を持って来られたり話を聞いたりして、古文書、中世文書があったりした時は、島大教授で、後では大阪工業大学へ移られた井上寛司先生と親しかったから、中世文書というと先生に相談してたの。先生も引継ぎ文書の中世分を見に来られたりしてたから。それで興味を示される古文書の時は一緒に行って下さるのよ。
聞いたことある? 井上先生をもうちょっとで死なせるところだったという話。
―聞いたことあります、田圃に落ちたんでしたっけ(笑)
そう、田圃にドッシンと落ちたの。稲刈りはもう済んで、水も溜まってなかったけど、動かせなくてレスキュー車で運んでもらって、車はオジャンになった。
あの時ねー、さる人にすごく怒られた。「何やってるの、あなたは井上先生を半身不随にするところだったのよ! お金じゃ買えないわよ!」ってすごい叱られてね。知人の間ではよく知られた話よ。
―怪我は?
怪我は全然なくて、井上先生も「あれ、落ちちゃった」「田圃ですね」とかって言って(笑)。ぶつかった相手も車はかすった程度だったから、落ちた私たちを心配して「大丈夫ですか」って。
川本町の小笠原家文書の調査で、浜田まで行って県図の西部センターの車に乗り換えて目的のお宅へに行くことになってたんで、センターへも相手のお宅にも、県図にも連絡しないといけない。私その頃、携帯など持ってなくて、どうしようって思ったの。井上先生も持っておられないしね。それで、ぶつかった相手の人に「すみません、連絡したいんですけど電話貸してもらえますか」って。「あ、僕、携帯持ってます。ちょっと待ってね、警察に電話してから」とか言われて。その後、借りてあちこち連絡したの。歴博(島根県立古代出雲歴史博物館)の近くに大社警察署があるでしょう。あの辺でのこと。
―あんなところで? 石見まで行くのに、まだ全然手前でしたね。
そう、それで自転車で通りかかった近所の人に「ここはよう車がぶつかりますけんね~」とか言われて。その間に、井上先生はその自転車で通りかかった人に田圃の持ち主を聞いて、すぐ近くの家だったから「自分が行ってくる」ってお詫びに行って下さった。その家の人も「いいです、いいです、もう刈り取った後だから」と言われたそうなの。先生のお詫びの仕方がよかったのよ。きっと(笑)
今だったら大問題になって懲戒免職になってたかもしれない。まぁ、そんな調子で、割と自由に郷土資料の調査や、探訪をさせてもらった県図時代でした。
公文書館への想い
―郷土資料に話を戻しますが、「古文書」と称されていた県庁の郷土資料は、整理を終えて島根県立図書館に移管したということでしたが、そのうちの近代以降の資料は、その後さらに島根県公文書センターに移管されていますよね?
そう、近代資料は島根県公文書センターに行きました。さっきも話したけど、『新修島根県史』完結後、しばらくは県図が文書館的な役目を果たすということで、亡くなられた田村清三郎元次長は考えておられたと思うし、元総務部長の森広厚造さんもそうだったと思う。でも、その考えの中に「行政文書をどうするか」っていうのは、時代的なこともあって、まだ視野に入ってなかったのよね。
郷土資料の引継ぎが終了して、ずいぶん後だったけど、総務課の係長さんだった人から「まだ引継ぎの残りがあるから見に来てほしい」と言われて書庫へ行って見たら、竹島関連の地図とか、資料もあったと思う。これは田村清三郎さんが出された『島根県竹島の新研究』(1965年)で参考にされたものではないかと思って、「竹島関係のですよね」と話して、「午後台車を持ってきます」って一旦帰ったら、昼過ぎにその係長さんから「あれはナシにしてくれ」って連絡があったの。そうだろうなって思った。
多分、廃棄しようと思っておられたけど、「古文書」って書かれた場所の奥にあったから一応県図へ電話して、いざ渡すには稟議の作成が必要でしょ、課長とかの承認がいるから。それをしようとされた時、「待った」をかける人が上の方におられたんだと思うの。「県図へ渡せば閲覧になるから、内容が竹島となると難しいだろう」と考える人がおられたんだろうね、その当時は微妙な最中だから。で、県図へは来なかったの。
それで理解できたのよ。田村さん作成の『島根県庁蔵郷土資料目録』に記載されてるのに、私たちがこの目録と1点ずつ照合した時に「欠」を記入したのが、竹島関係のものが多かった意味が。あらかじめ別置してあったのだと思う。きっと田村さんがされたんでしょう。
それから大分後になって、国立国会図書館の専門調査員の塚本孝さん(現・東海大学法学部教授)が、「田村さんの著書の引用文献や『島根県庁蔵郷土資料目録』に載る資料が移管されたそうなので、竹島関係資料を閲覧したい」と来られたけど、(当時の県図には)まったくない。2人で、「図書館だから移管しなかったんですね」と話したことがあった。
その時に、塚本さんが「田村さんの家へ行きたい」と言われたので、奥さんの、詩人で著名だった田村のり子さんとつないであげたの。人を紹介するって意味のレファレンスかな。これは本当によくしてたのよ。
そんな事があったりして、やっぱり近現代の行政文書は公文書館でアーキビストが扱う必要性があると思いだしたの。「全史料協(全国歴史資料保存利用機関連絡協議会)」の発足が昭和51年(1976)だけど、私はその前年に京都で準備会があった頃から個人で会員になってたの。それで、毎年ではないけど、全史料協の全国大会には参加していた。その中で、他県の県庁総務課、文書館、地方史誌編纂事務局、図書館など、歴史資料を扱っている人に知人もいたのよね。
そういう中で、「島根県立公文書館」ないし「文書館」をつくるべきだって、私も(国文学研究資料館の)安藤(正人)先生や青木(睦)先生、県の総務課と大分相談しました。そこ(県立公文書館の開設)へ持っていかなきゃ、田村清三郎さんの気持ちが続かない、と思ってたから。
―なるほど、流れがよく分かりました。では、長くなりましたので、今回はこのへんで。本当にありがとうございました。
次回は、「島根県立図書館時代の郷土資料へのとりくみを中心に」後編として、県立図書館における「島根郷土資料刊行会」、山陰歴史研究会『山陰史談』の活動、国文学研究資料館との合同調査の経緯などについて伺いたいと思います。
注記
(注1)櫻木保(さくらぎ・たもつ)
明治44年(1911)、千葉県東金市生まれ。生家は朱子学者の家系で、山崎闇斎の崎門学派三傑の一人・佐藤直方の学派を継ぐ上総道学を学んだ桜木ぎん斎(文化元年没、ぎんは門に言)を祖に持つ。家では代々幼少期より道学を教授された。旧制中学校卒業後、農業土木技術者として千葉県に奉職。昭和13年(1938)、満州拓植公社に入社し大陸へ渡る。昭和20年5月に招集され従軍、敗戦後は捕虜となってシベリアで1年半の抑留生活を送る。復員後、島根県に奉職、松江市浜乃木干拓事務所長、中海江島干拓事務所長、農林土木事務所長を務める。退職後、島根県立図書館嘱託として郷土資料移管にあたった。平成12年(2000)に千葉県に帰郷。
編著書に、本文で挙げた3点の他、『出雲藩山論史料集』全5集(島根郷土資料刊行会、1973~1974年)、『想い出―槿花一朝の夢―』(私家版、1982年)、『島根県立図書館漢籍分類目録』(島根県立図書館、2000年)がある。
(注2)『新修島根県史編纂余禄』
島根県より1968年刊、全185頁。『新修島根県史』全11巻の刊行経緯のほか、県関係者および編さん委員(森広厚造、曽根研三、河井忠親、中村一介、山本清、岩成博、内藤正中、山岡栄、田村清三郎、木幡吹月、三宅美代治、山根俊久、野津精、東梅良太郎、矢富熊一郎、加藤義成、柳浦文夫、大久保正厚、星野春雄)の座談会、回想、課題がまとめられている。
(注3)田村清三郎
大正3年(1914)、満州に生まれる。本籍は島根県那賀郡旭町。旧制松江高等学校を経て、昭和15年(1940)、京都大学を卒業し満州に戻る。斉々哈爾(チチハル)地方師道訓練所教官を経て龍江省に勤務。昭和20年(1945)8月、敗戦により退職し、翌年8月、日本に引揚げ松江市に居を定める。島根県厚生会を経て、昭和25年(1950)、島根県知事公室文書係に勤務。翌年より総務部広報文書課、島根農科大学厚生課長、島根県厚生部薬務課を経て、昭和38年(1963)、総務課主幹、県史編さん室勤務となり『新修島根県史』編さんにあたる。昭和42年(1966)、島根県立図書館次長。翌年4月21日、図書館職員親睦旅行で赴いた山口市湯田の旅館で転落死。
編著書に『島根県竹島の研究』(島根県総務課、1954年)、『島根県庁蔵郷土資料目録』(島根県、1956年)、『島根県竹島の新研究』(1965年)、『明治初年の県政』(今井書店、1966年)、妻・田村徳子(詩人の田村のり子)による『田村清三郎遺稿集 則鳴』(昭和44年)がある。
(注4)島根県公文書センター
島根県庁第3分庁舎(旧島根県立博物館)を改修し、「島根県公文書等の管理に関する条例」全面施行にあわせて平成23年(2011)11月1日開所。特定歴史公文書の保存と一般県民の利用を主な機能とし、県政情報センターを同一施設内に併設。開所時より専門職員の不在が課題とされている。(岩?健児「島根県公文書センターの開所について」『アーカイブズ』47号、2015年)
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電話:0852-55-5284(調査企画係)、0852-55-5293(発掘調査係)、0852-55-5388(文書館準備係)
ファックス:0852-55-5571(調査企画係・発掘調査係)、0852-55-5495(文書館準備係)
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更新日:2026年06月30日