川岡先生コラム

更新日:2023年02月01日

京極氏の出雲支配と橋姫大明神

川岡勉(中世史部会専門委員)

 松江市和多見町の賣布神社には、永享11年(1439)3月3日に若宮三河栄藤という人物が一段の土地を寄進した文書が残されている(『史料編中世1』560号)。寄進状の冒頭に「奉寄進橋姫大明神御神田之事」とあり、当時の賣布神社は橋姫大明神と呼ばれており、栄藤は当社に附属する神田(神社の祭礼や造営など各種経費に充てるための田地)として土地を寄進したことが分かる。寄進状には「右御神田ハ御屋形之御祈祷料、次にハ栄藤か子孫マテ為祈祷也」と書かれており、神田の寄付を受けた橋姫大明神には「御屋形」および若宮栄藤の子孫のために祈祷を行うことが期待されたのである。

売布神社の本殿外観の写真

(左写真:賣布神社)
 当時、「屋形」とは守護など大名に相当する家格を持つ人物の呼び名であり、守護は家臣たちから「御屋形様」と呼ばれた。この寄進状に見える「御屋形」は、出雲の守護を務める京極氏を指すと考えてまちがいあるまい。若宮栄藤は京極氏の家臣であり、だからこそ橋姫大明神に神田を寄進するにあたり、自らの家の繁栄と並んで「御屋形」のための祈祷を依頼したのである。
 実は、この寄進状が出されたのは、京極氏の当主が代替わりしてまもない時期であった。この年正月13日に京極持高が子息を残さないまま亡くなり、その叔父にあたる京極高数が家督を継いで、出雲・隠岐・飛騨三カ国の守護に就任した。高数は室町幕府の六代将軍足利義教と親密な人物であり、義教のバックアップを受けて分国支配を開始した。若宮栄藤は橋姫大明神に田地を寄進するにあたり、新当主高数の支配が安泰であることを祈願したのであろう。
 賣布神社には、元亀3年(1572)正月10日に青砥弥三左衛門光重が記述した「橋姫大明神縁起」が伝えられている(『史料編中世2』1513号(PDFファイル:145KB))。この縁起によれば、風波が砂を吹き寄せてできた洲崎に白潟の住人青砥氏が住宅を建てたところ、諸方から万民が移り住んで人家が繁昌し、青砥氏は当所にあった水神連秋津比□(口+羊)命を祭る神社の神主になったとされる。ある時、神主青砥重信が社内でみた夢に女神が現れ、託宣を告げて評判を呼んだ。人々が集り、町が発達する中で、意宇郡と島根郡の間にある湖に橋が架けられて人馬の通行が盛んになり、この神社は橋の安全を守る明神であるとして橋姫大明神と号した。本地仏は薬師如来であったという。毎年正月八日には、頭人を定め、神田を耕作した費用で当社の祭礼が催された。当日は鱸膾・羹饅頭や酒・米などを神前に供え、神楽も奉納された。祭礼は九月にも行われたようである。縁起の記述からは、戦国時代の白潟の経済発展と結びつきながら、橋姫大明神の信仰が広がっていた様相がうかがわれる。
 応永5年(1398)書写の記録を持つ「大山寺縁起絵巻」には、宍道湖の出口付近に浮島のような砂州が南から伸びており、砂州から北岸に架かる橋の南詰に赤い鳥居が描かれている。これが橋姫大明神であろう(『史料編中世1』口絵)。観応元年(1350)8月13日、守護京極氏に属す佐々木三河守・朝山義景らが反守護方の軍勢と白潟橋の上で交戦し、佐陀城(西佐陀町)からも佐陀氏らが出陣して反守護方を追い払うことに成功した(『史料編中世1』386号)。白潟橋は「大山寺縁起絵巻」に描かれている橋と考えられ、中海・宍道湖の北と南をつなぐ交通上の要衝である。そのため白潟周辺は軍事的な要地でもあり、しばしば合戦の舞台となった。
 白潟橋は湖上水運と陸路が交差する場所であり、橋の近くには商人や職人・運送業者らが住み着き、物資を集荷・選別・出荷する流通拠点が形成されたと思われる。こうした経済的・軍事的な重要性を念頭に置くと、京極氏の家臣である若宮栄藤が橋姫大明神に田地を寄進したのも、京極氏の地域支配の一環であったと考えられる。当社との関係を深めることで、流通統制を強め、京極氏の支配権を地域社会に及ぼそうとしたのであろう。京極氏の支配下で、白潟は水陸交通の拠点として発展をみせていくのである。
 賣布神社文書に登場する若宮栄藤は、鰐淵寺文書の中にも姿を見せる。永享10年3月23日に室町幕府が出雲国守護である京極持高に宛てて、鰐淵寺と寺領の国富荘・漆治郷について臨時課役・段銭・人夫以下の諸公事を免除することを命じたところ、持高はこれを受けて免除を指示する遵行状を4月23日に若宮三河守と富尾太郎左衛門入道に宛てて発するのである。翌11年7月4日にも鰐淵寺の散在寺領の恒例段銭・臨時段銭以下の諸公事を停止を命じる奉書が出されたようで、沙弥栄藤と沙弥亨西が8月19日にその旨を鰐淵寺衆徒に伝えている。ここに名前の見える若宮三河守栄藤・富尾太郎左衛門入道亨西の両名は、守護京極氏の命令を受けて現地で諸公事の徴収に当たる役人であったと考えられる。
 室町時代の守護は京都に居住するのが原則であり、それぞれの家格に応じて職務を分掌しながら幕政に参画し、各種の武家儀礼に加わった。若宮氏の主人である京極氏も、祇園社(八坂神社)に近い高辻京極に屋形を構えており、京屋形の所在地の名をとって京極氏と呼ばれた。京極氏は近江源氏の佐々木氏から出た一族であり、室町幕府の侍所頭人を務める一方、出雲など複数の守護職を兼任する有力守護の家柄であった。

 守護屋形の周辺には、守護に従う家臣たちも居住し、主人の活動を支えていた。そのため京都には多数の武士が駐留しており、将軍の直臣や国人なども含めると5,000騎以上にのぼると試算されている。武士たちの集住により商業・流通・金融活動が活発化し、守護を務める諸国との都鄙間交通も発達して、京都は大きな経済的繁栄を遂げていくのである。
 明徳3年(1392)8月、室町幕府の三代将軍足利義満は、室町御所の東隣にある相国寺の堂舎の建設を祝い、慶讃供養を盛大に執り行った。この時、先陣随兵の四番目を勤めたのが京極氏の当主高詮の二人の子息高光と高数であり、高光を補佐したのが若宮秀重・赤田守高・日向久長・箕浦高長、高数を補佐したのが多賀高信・神保秀氏・田中詮氏・目賀田頼景であった(「相国寺供養記」)。宝徳元年(1449)に京極持清が侍所頭人に任じられた時には、これを補佐する所司代の職に若宮氏が就任している(「康富記」宝徳元年11月13日条)。2日後、石清水八幡宮(京都府)で放生会が執り行われることになり、持清は所司代の若宮氏に神輿警固のため下向させている(「文安六年記」)。京極氏の所司代は、代々若宮氏と多賀氏が務めていたとされる(「古文書載」)。
 このように、若宮氏は京極氏の最有力の家臣の一人であった。「大館常興書札抄」には、「京極殿の内」として隠岐・多賀・若宮・下河原・赤田・箕浦の六名が書き上げられており、主だった家臣の名前が判明する。彼らはいずれも主家と同様に近江出身の者たちであり、若宮氏も近江の北部、現在の滋賀県米原市に館跡と伝えられる場所がある。彼らは京極氏に従って上洛し、京極氏の京屋形の周辺に住んで活動を展開していたものと思われる。
 一方、京極氏が守護を務める分国の支配も、彼ら譜代家臣の活動に支えられていた。永和3年(1377)10月、大野信実の訴え出た大野荘東郷の箕内・石塚両村の地頭職に関して、出雲守護代の隠岐自勝が現地の事情を調べて、京都にいる若宮掃部助入道に請文を提出している(『史料編中世1』」464号)。出雲に不在の京極氏の代官として、隠岐氏が京都から派遣されて分国支配に当たっていたのである。隠岐氏のほかにも、多賀氏や下河原氏など、出雲に下向して活動した家臣は少なくない。賣布神社文書や鰐淵寺文書に姿を見せる若宮栄藤も、そうした家臣の一人であったろう。
 また、栄藤が橋姫大明神に田地を寄進した年の11月の史料には、出雲において尼子氏の活動が初めて確認できる(日御碕神社文書)。尼子氏も近江を本拠地とする一族であり、京極氏の守護代として出雲に下向し、国内に勢力を植え付けていった。戦国時代の幕開けとされる応仁の乱が起きて京都や諸国で戦闘が広がると、京極氏の当主である政経自身が出雲に下ってくるが、尼子氏も乱を通じて勢力を拡大した。やがて、尼子氏は主家京極氏に代わる大名へと成長していくことになる。
 戦国時代の白潟には自律的な住民組織が形成されたようで、その構成員と思われる松浦道念が明応年間に橋姫大明神に土地を寄進している(『史料編中世2』754号・765号)。これは、守護京極氏から都市住民へと、町場支配の主導権が移ってきたことをうかがわせるものである。白潟は内海水運の拠点として一層の発展を遂げ、「橋姫大明神縁起」に記述されたように周辺で生活する人々からの信仰を集めた。やがて近世に松江城下町が建設されると、白潟は末次と並ぶ代表的な町人町として城下町の中に組み込まれていくのである。

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