松江城調査報告会(平成28年度)
松江城調査報告会レポート:平成29年3月20日(月曜・祝日)
松江市では、国宝松江城天守に関わる調査・研究に継続的に取り組んでいます。
第4回となる今回の報告会は、松江城天守に関する講演2本と、講演者3名によるパネルディスカッションという構成で行われました。
報告講演1
「初期松江城天守の形態について」では、和田嘉宥米子工業高等専門学校名誉教授及び稲田信松江市史料編纂課長による、初期松江城天守の形態について報告がありました。
まず稲田課長の報告では、松江城天守を描いた絵図を見る限り、天守の姿は17世紀までと、18世紀のある時期以降とではその形態が異なること、また現在の松江城天守内部の柱を観察すると、絵図に書かれた千鳥破風の痕跡らしき「貫跡」があり、絵図の描写と矛盾しないことが報告されました。そして文献資料から外観の変化を見てみると、松江市指定文化財である「竹内右兵衛書つけ」にある「二重目也西ニ破風有リ」の「見せ消ち」(朱線)は二重目(内部2階)にあった千鳥破風がのちに撤去されたことを意味する可能性があること、また松江城天守は、元文3年(1738)より寛保3年(1743)にかけて大規模な改築が行われており、現在の松江城天守はこの頃に現在の姿になった可能性もあるということを報告しました。
それらをふまえて、松江城天守の形態の変遷に関連し、「貫跡」などをもとに建築学上の検討が必要であり、あわせて「竹内右兵衛書つけ」や「松江城天守雛形」の作成年代、作成理由、構造形態などについて研究を深める必要があると述べました。また松江城天守の別名「千鳥城」の名称については、その由来が不明瞭であり引続き今後の課題ではあるが、その名称が初期松江城天守の形態に関連している可能性を提起してまとめとしました。
つづいて和田名誉教授からは、絵図、文献資料、天守に残された痕跡を通して初期松江城天守の形態について報告があり、初期(直政入封の寛永15年頃)の松江城天守はどのような姿だったかを考察されました。
絵図に関しては、松江城天守は「正保城絵図」以外の絵図にも描かれていますが、千鳥破風と唐破風をあわせ持つ姿としては延宝2年(1674)の「出雲国松江城之絵図」があることを述べられました。次は松江城天守に残る痕跡を、現在の天守内部及び昭和の大修理の際に撮られた写真などで確認し、そこから想定される2階の破風の位置について述べられました。次に「竹内右兵衛書つけ」をはじめとする文献資料に見る外観の変化について述べられ、さらに文献資料に見られる松江城天守の修理に関する記述をもとに、いつどのような修理が行われたのかを検討されました。そしてそれらをもとに初期松江城天守の復元的検討を行いました。
おわりに、修理履歴より現存天守は1740年頃のものであり「松江城天守雛形」は修理の際に制作された可能性があること、今後の課題として「出雲国松江城之絵図」の天守の姿を総合的に検討し、初期松江城天守の復元検討を深めるのが課題であることを述べられました。
報告講演2
「松江城天守雛形について」では、山田由香里長崎総合科学大学教授による「松江城天守雛形」の構造・規模、通し柱の表現、来歴及び制作年代等について報告がありました。
また松江城天守以外の城に残る天守雛形(4箇所7基ー宇和島城天守雛形、延岡城二重櫓模型、延岡城三重櫓模型、大洲城天守雛形、小田原城天守模型3基)について、その特徴及びそれらの雛形を参照して建てられた復元建物のことを述べられました。最後に松江城天守雛形の特色と価値について、「松江城天守雛形」は希少な存在であり、近世にさかのぼる天守雛形(模型)は全国に5箇所8基しかなく、現存天守の雛形としては最も古いものであることなどを述べられました。
後半のパネルディスカッションでは、前半の報告講演2本を受けておもに初期松江城天守の形態等についての議論が行われました。初期松江城天守の形態については、絵図や雛形及び文献資料から見てもまだわからないところが多いのですが、今後も調査やその成果を積み重ねていくことが松江城天守の実態に近づく近道というまとめとなりました。
資料ほか
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更新日:2023年05月17日