調査コラム
令和2年(2020)4月より書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」、この度、51回を迎えました。今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。
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第51回「『出雲国風土記』の布自枳美高山・女嵩山と嵩山・和久羅山」
(松江市文化財コーディネーター/丹羽野裕/2025年6月26日記)
はじめに
松江市の市街地は、南北と東側を山で囲まれています。そのなかでも、シンボリックで市民がよく知る山として、嵩山(だけさん)と和久羅山(わくらさん)があります。西から見ると、和久羅山が人物の顔、嵩山が胸からお腹あたりに見えることから、以前は「寝仏山」と言われてもいたそうです。見る人によっては、麗しき乙女の寝姿と形容されてもいました【写真1】。

【写真1】宍道湖西岸(出雲市園町)から見た嵩山(左)と和久羅山
和久羅山頂部の凹凸が人の顔に、嵩山の緩やかな膨らみが体に見えます
ところでおよそ1300年前の天平5年(733)に編纂された『出雲国風土記』(以下「風土記」といいます)には、布自枳美高山(ふじきみたかやま)と女岳山(めだけやま)という山が記載されています。江戸時代以来の風土記研究の積み重ねで、布自枳美高山は嵩山を指す、ということで異論がありません。一方で女岳山は和久羅山という説と、嵩山の北に伸びる山稜の峰という説があって、定説がありません。
そこで、なぜ女岳山が特定できないのかを検討したうえで、あらためて風土記に書かれた二つの山がどの山にあたるのか考えてみたいと思います。結論を先に述べますと、300年以上の研究史をくつがえし、布自枳美高山を和久羅山、女岳山を嵩山、と私は考えています。以下にその理由をお話ししたいと思います。
1.『出雲国風土記』の記述
まずは、風土記にどのように記されているか、見てみたいと思います。風土記の写本の中で、比較的古くて信頼性が高いと言われている「古代文化センター本」の該当部分を下に掲げます【写真2】。もとは漢文ですので、『出雲国風土記 校訂・注釈編』より読み下し文を引用します。

【写真2】『出雲国風土記』古代文化センター本
「布自枳美高山。郡家の正南(まみなみ)七里二百一十歩なり。高さ丈、周り二十里なり。(烽あり。)女岳山。郡家の正南二百卅歩なり。」
さらに訳すと、
布自枳美高山は、島根郡の郡庁から4100mほど南にある。高さ(不明)mで周囲は10.6キロメートルある。なお、狼煙(のろし)台がある。女岳山は郡庁から400mあまり南にある。
といった感じでしょうか。二つの山は、しっかりと場所が書いてあるではないか、と思われるかもしれません。ところが、基点となる島根郡家の場所が特定されていないために、混乱が生じます。場所が特定されていない、というのは郡家と判断できる遺跡が見つかっていない、という意味です。福原町芝原遺跡を島根郡家にあてる説もありますが、郡家本体にしては規模が小さく規則性に欠けるという説もあります。
研究の歴史の中では、福原町という説と、東持田町納佐付近という説がありますが、確たる証拠があるわけではありません。ちなみに郡家の位置も風土記に記載されています。
「意宇郡の朝酌渡に通くこと、一十里二百廿歩」
朝酌の渡の位置はほぼ特定されていて、矢田の渡しとほぼ同じ場所でした。距離を換算すると6.24キロメートルくらいになります。直線距離で測ると納佐説ではやや近く、福原町の方が近い値になります。一方、納佐あたりには7世紀頃のこの地域の首長が葬られた古墳が集中していて、その頃の豪族の拠点にあたります。また古代の道は、国府から北に向かう道と川津・持田の平野を東西に走る道が交わる三叉路が納佐付近になることは無視できません。
ここではどちらなのか、ということはうっちゃっておいて、現在の持田地区の東側あたり、と考えておきます。ただいずれにしても、女岳山は郡家から南約400mですので、それをそのままあてはめれば、嵩山(布自枳美高山と決まっている)の北にあるどれかの山となるのです。そこで嵩山の北側にポッコリと盛り上がる嶺が女岳山ではないか、という説が浮かび上がります。
一方で戦後の風土記研究をリードし、風土記解釈に大きな影響を与えた加藤義成氏は、『出雲国風土記参究』(初出1957年)で、女岳山を和久羅山にあてました。布自枳美高山を嵩山としたうえで、あえて和久羅山としたのは、「嵩山の右肩に恰も女嵩山というに相応しく、嵩山に依り添って聳えている」ことを無視できなかったからでしょう。加藤説はその後、文庫本『出雲国風土記』(初出1965年)の刊行もあり、一般の歴史愛好家に大きな影響を与え、女岳山=和久羅山というイメージが広がっていきます。しかし、嵩山との距離の矛盾はいかんともしがたく、研究レベルでは劣勢を強いられたことは否めませんでした。
2.布自枳美高山は嵩山という「定説」
論点を変えて、布自枳美高山が嵩山になったのはなぜか、見なおしてみます。現在に残っているもので、初めて風土記の記載と当時の場所とを結びつけて注釈をしたのは、松江藩の郡奉行だった岸崎佐久次時照が著わした『出雲風土記鈔』(以下「鈔」といいます)です。そこでは布自枳美高山の注釈として、まず
「・・・・則東川津ノ嵩山(タケヤマ)是成・・・・」
と書いているので、「タケヤマ」と「タカヤマ」の音の類似に注目し、嵩山と比定したものと推測されます。さらに
「合祭布自支弥多氣両社ヲ於山頂ニ 今ニ俗曰嵩(タケノ)大明神ト」
と書きます。山頂に、布自支弥(ふじきみ)社と多氣(たけ)の二つの神社を合わせて祀っていて、一般に嵩大明神という、と訳されます。山頂に名を負った社があることも根拠となったとうかがえるでしょう。
その後たくさんの注釈書が著わされていきますが、関和彦氏がまとめた次の文が、端的に嵩山が定説となった経緯をまとめています。
「享保二年の『雲陽誌』では上川津村において立項され『嵩山[風土記]に載る布自枳美高山是なり、山頭に布自支彌多氣二神を一社に合祭て嵩大明神と號す、此山近村の高山なり嶽とも書』とみえ、以後この山に関しては異論はない。」
松江藩の地誌でお墨付きを得られて、その後の定説につながったという意だと思われます。江戸時代前期の注釈書の始まりから、これまでの間、ずっと嵩山が布自枳美高山とされ続けたわけです。

【写真3】国庁・島根郡家・朝酌渡の位置と嵩山・和久羅山
『出雲国風土記-地図・写本編-』より引用改変
3.里程と山の関係を見直す
定説を再検証するために、あらためて島根郡家からの里程を見てみます。
布自枳美高山は 4100mほど南
女岳山は 400mあまり南
とあります。ここで疑問が生じます。布自枳美高山は、東持田町から福原町あたりから4100m南というと、直線距離で西尾町から朝酌町にかけての和久羅山南麓にあたります。直線距離ではなく、官道を歩いた距離としても、和久羅山の北麓を越えそうです。念のため他の距離との割合で換算すると、郡家から南に4100mが布自枳美高山、郡家と朝酌渡の南岸までが6244m。布自枳美高山は郡家と渡の間の約66%分南側になり、やはり和久羅山の南麓付近になるのです。一方で女岳山は、郡家からすぐ見えるところです。
山への方向と里程は、どの部分で計測しているのでしょうか。難しい問題ですが、山の登り口付近、とするのが通説です。となれば、女岳山の登り口は郡家から400mなので、嵩山から北に伸びていく低い丘陵のどこでも、あてることができます。布自枳美高山は官道沿いなら西尾町、直線で結べば朝酌町付近の和久羅山のふもとになるのです。ちなみに現在の和久羅山の登山口は西尾町集落の北側にあります。風土記記載の里程を信頼するのなら、布自枳美高山は和久羅山になる可能性が出てきました。
4.布自支弥社と多氣社の問題
布自枳美高山を嵩山とするもう一つの根拠に、その山頂に江戸時代の前期から布自支弥社と多氣社を合祭した嵩大明神が存在していたことです。現在は布自伎美神社とその境内社・嵩社がやはり嵩山頂上にあります。問題はこれらの神社が、風土記の時代から直接つながる神社なのかどうか、にあります。神社の社地は歴史上、しばしば移動しています。伝承として多いのは、山の中にあったものが集落の近くに移転したパターンですが、嵩大明神の場合は別の要素を検討してみる必要があります。
まずは二つの社を合祭していることです。このことは、少なくともどちらかの神社は移動していることを示しています。また関和彦氏は、風土記記載の傾向として、山頂付近に社がある場合は「社あり」と明記されることが多く、布自枳美高山には「烽あり」という記載だけで、社に触れていないことに不自然さを指摘しています。あわせて近世や近代の史料を丹念に追いかけた同氏は、布自支彌社は建造物としては嵩山山頂になかった可能性や、本来山頂に存在していたのは多氣社だった可能性を述べています。関氏の見解をとれば、多氣社があった嵩山は、女岳山だった可能性が浮上します。多氣(たけ)、嵩(だけ)、女岳(めだけ)は、音がほぼ一致するのです。
5.和久羅山に烽があってよいか
布自枳美高山には「烽あり」と記されています。古代に、特に対外的な軍事情報を伝えるために、山陰道には狼煙(のろし)台である烽(とぶひ)が点々と置かれました。出雲国風土記には国内に五か所の烽が設置されたことが記され、布自枳美高山はその立地から、出雲国庁・意宇軍団に情報を届けるハブの山だったと考えられます。嵩山と和久羅山は、北山の南に突出した独立峰ですので、宍道湖・中海沿岸のどこからもよく見える山です。その意味では、どちらの山でも烽は成り立ちえます。一番大きな問題は、国庁・意宇軍団から和久羅山が見えるかどうかです。【写真4】は、官道が交わる「十字衝(ちまた)」推定地から撮影したものです。この場所であるわけは、意宇軍団は意宇郡家と同じところにあり、意宇郡家の北が十字衝と記されているからです。嵩山はもちろん見えるのですが、それと重なりながら和久羅山を明確に見ることができます。右が嵩山、左の影になっているのが和久羅山です。出雲国庁付近からも同様のアングルで見ることができます。

【写真4】史跡出雲国府跡 十字衝推定地から見た嵩山(右)と和久羅山(影になっている山)
狼煙台の機能として重要なのは、煙が上がっているのが見えることです。嵩山の方がやや高いので、烽は嵩山の方がふさわしいと考えがちですが、見えることを前提に、実は高いことよりも近いことのほうが大事なのではないでしょうか。煙信号を見る東西の烽の、多夫志烽(出雲市の旅伏山)と暑垣烽(安来市の車山)からも、もちろん和久羅山は見えます。東西から見た時には、どちらの山も条件はほとんど変わりません。あえて言えば、南に突き出して峰が明瞭な和久羅山の方がふさわしいとも思えます。
なお、『出雲国風土記』完成の翌年、天平6年(734)に、出雲国と隠岐国との通信のための烽設置命が出されます。つまり布自枳美高山と隠岐をつなぐ中継の山が必要となります。国境防備のために置かれた戍(まもり)が、「風土記」によれば島根町瀬崎付近にあったはずですから、松江市東北の北山山塊のどこかに「烽」が設置されたものと推測できます。その候補として最適なのは、現在の澄水(しんじ)山、「風土記」記載の毛志山(もしやま)です。和久羅山から澄水山頂が見えることは言うまでもありません。
6.交通・軍事の要衝、和久羅山
和久羅山周辺は、いにしえより交通上の要衝でした。人や物の移動には、舟が最も便利だった古代には、宍道湖と中海の間をギュッとしぼる朝酌地域は、交通・流通を掌握するために重要な地域でした。古墳時代には、西尾町に5世紀の大型古墳が築かれ、6世紀から7世紀には朝酌町に大型古墳や首長級の豪族が葬られる石棺式石室が築かれています。どちらも和久羅山の南麓です。風土記には、国府を基準とした水陸交通の要所として、「朝酌渡」が記され、その場所は後の矢田渡しとほぼ同じところです。役所としての朝酌渡(渡し場の管理事務所的役割)は、南岸側にありました。矢田渡しの南側から北を望むと、和久羅山がそびえていますが、嵩山はその陰に隠れてみることはできません【写真5】。交通の要衝を上から監視する機能が、古代からあったと考えるのは自然です。出雲のヘソともいうべき渡をにらむ和久羅山が、烽を選ぶときに真っ先に思い浮かんだとは考えられないでしょうか。

【写真5】矢田の渡し南岸から見た和久羅山
中央左の小山には多賀神社が鎮座し、その向こうに6世紀後半の松江北部の首長墓、魚見塚古墳があります。
中世になると、その軍事的重要性が明確に現れます。戦国時代の16世紀後半、尼子氏の本拠である月山富田城を攻略しようとした毛利氏は、西から白鹿山城を攻略したのちに、羽倉山(和久羅山)を前線基地として狙いました。また後の尼子再興戦争の際には、尼子方は羽倉山城を攻め落として毛利氏を追い込みます。二つの湖のボトルネックをにらむ羽倉山城は、軍事上とても重要な場所でした。
烽は一義的には、烽の間と国府をつなげば用が足ります。しかしそれは国家的な要請であり、国府周辺を拠点とする豪族・氏族や国司にとって、朝酌渡の安定はとても重要だったと考えられます。いわば出雲国の内的要請に基づく山上の見張りと、国家の命で設置された烽を別途に設ける必要性があったでしょうか。
7.国引き神話の闇見国と和久羅山
視点を大きく変えてみたいと思います。『出雲国風土記』といえば冒頭の「国引き神話」が有名ですね。海の向こうの4つの国から土地の余りを引いてきて、島根半島を形作る神話は壮大なだけではなく、正しい地理認識と地形認識に基づいています。全体の構成が意宇郡を中心とした国造りを反映していて、出雲国造の出雲臣氏が出雲の豪族たちを束ねていることを高らかに謳う詞章と考えられています。そしてその内容は、地域の実態を相当程度に反映しているものとする説が有力です。
さて、国引きの3番目に「闇見(くらみ)国」が引かれてきます。その範囲は、現在の佐陀川が通る地溝帯と、手角町から美保関町稲積・北浦を結ぶ谷筋(松江鹿島美保関線が通ります)までの間と考えて問題ないと思います。つまり、島根郡のうち、美保関町の細長い半島状の岬を外した部分にあたります。今の地名でいえば、城下町橋北、生馬地区、法吉地区、川津地区、持田地区、本庄地区と、そこに対応する日本海沿岸部分です。この地域の古代の中心地は、弥生時代以来の遺跡分布や古墳の在り方からみて、川津地区と持田地区になると思います。ちなみに、西隣は「佐太国」です。
闇見国の名称については、闇の文字から暗いことをイメージし、島根郡の「根」とも結びついて、黄泉の国とか地下世界を連想する方が多いと思います。『日本書紀』で大国主命が、蘆原中津国を天上の神々に譲るときに、自分は死後の世界をつかさどると言った、という神話の一部にも結び付くわけです。ところが、黄泉国にまつわる伝承は、意宇郡や出雲郡にはあっても島根郡には全く見られません。
闇見の地名の由来として、注目されるのは平石充氏の見解です。平石氏は、闇見国は「くら」の国ではないかと説きます。その主な根拠は、風土記の島根郡条に記載される山の名前です。島根郡条には、布自枳美高山と女嵩山のほかに4つの山が記されます。それは川津から持田・本庄の北に連なる、枕木山、三坂山、澄水(しんじ)山、大平山と考えられます【写真6】。これらは尾根続きの山々で、一つの山としても不思議ではない山塊です。それを、峰ごとに記載するのには理由があるはずです。同氏は、4つの山の両端の名前が、「大倉山」「小倉山」であることに注目します。山々が大小の倉山で挟まれているのです。しかも、島根郡に書かれた河川は、ほとんどがこれら四峰を水源としています。島根郡の中心地は先にも話しましたように、これらの山々の南麓一帯で、「見」は「くら」山が見える土地だと同氏は説きます。卓見といえるでしょう。

【写真6】川原町から見た大倉山(枕木山)から小倉山(大平山)
筆者なりに考えを深めると、闇見国名称はこの地域が、実態か伝承上かは別として、「倉」の役割、もしくはシンボルだった、ということだと思います。「見」は接尾語として、見る、みなす、という意味ともとれます。
話を和久羅山に戻しましょう。先にお話ししたように、和久羅山の古名は羽倉山です。『朝酌郷土誌』によれば「白倉山」とも書いたようです。実際に明治期の切図を見ると、和久羅山の頂上東側から斜面に「白倉」という字があり、東に伸びる尾根に広がっています。余談となりますが、西尾町には安蔵主、鞍切の字(あざ)が見えます。
羽倉山は史料からみて、戦国時代にさかのぼる古い名です。また音の変化を考えると、白倉(はくくら、はくら)→羽倉(はくら、わくら)→和久羅(わくら)となるのが自然でしょう。となれば、白倉は戦国時代をさらにさかのぼる地名の可能性が出てくるのです。平石氏に導かれれば、島根郡の山の記載のはじまりは「白倉山」で、烽が設置された山だったため、「ふじきみ」の接頭語と「高山」という表象語で記されたと解釈できないでしょうか【写真7】。

【写真7】朝酌町から見た和久羅山
8.結論
想像を膨らませながら書き連ねてきましたが、あらためて結論を言いますと、『出雲国風土記』嶋根郡条の山野項に記された「布自枳美高山」は和久羅山であり、「女嵩山」は嵩山だと考えます。根拠は、
- 里程が一致すること
- 烽は和久羅山であっても十分機能を果たすこと
- 出雲の水陸交通の要である朝酌渡を見通せるのは和久羅山であること
- 嵩山頂上の布自伎美神社は古来より存在したとする根拠がないこと
- 和久羅山の古名が白倉山で闇見国の重要な山だったと推測されること
です。
おわりに
布自枳美高山は嵩山だ、という定説を覆すのは勇気がいることです。しかも筆者の専門は考古学で、風土記を扱う文献古代史についてはいわば素人ですのでなおさらです。この考えが事実と強く主張したいわけではなく、新しい見方を広く知っていただきたいだけで、評価は今後の研究に委ねるしかありません。このお話は、別の理由で朝酌地域を歩いている時に、ふと思いついたことを探求してみた結果です。当否はさておき、このような地域の歴史や古地理を『出雲国風土記』を通して探ることの面白さが感じていただければ、とても喜びます。
冒頭にお話ししたように、この二つの山はセットになって、仏様や女性に見立てられてきた連峰です。嵩山は頂上が出たり引っ込んだりしている和久羅山に比べて、尾根が緩やかに伸びていて、女性的と感じるのは私だけでしょうか【写真8】。地元の古藤敦夫氏は『朝酌』に「和久羅山は頭部で嵩山は胸部から下の如き感じがあって、仰臥する美人に見えるから不思議である。」(注参照)と記されています。筆者は、見た目では嵩山が「女岳山」にふさわしいように思うのです。そんな見立ては、近代以降の社会変化や文化変容がもたらしたもので、古代にさかのぼらせることは妄想に過ぎない、とお叱りを受けそうです。その通りなのですが、人間の認知には一定の普遍性があるのは事実で、一蹴されてしまうのはいかがなものか、とも思うのです。

【写真8】宍道湖大橋から見た嵩山(左)と和久羅山(右)
注
古藤敦夫氏の記載はとても興味深いものがあります。関係部分を引用します。
「菅田・島根大学方面からは、二つの山が一体となって眠り佛の山と謂われている。旧制松江高校生たちからはメッチェン山と呼んで親しまれた。和久羅山は頭部で嵩山は胸部から下の如き感じがあって、仰臥する美人に見えるから不思議である。
また反対側東部からの眺めも同じで大篠津にいた美保航空隊の予科練習生たちはこの山容にビーナスをしのんだという。観光PRにこれつとめている他市の寐シヤカ山よりこちらが数段上である。」
ちなみにメッチェンとはドイツ語で若い女性のことを指すそうです。
参考文献
- 古藤敦夫1979『朝酌』
- 島根県古代文化センター2000『出雲国風土記の研究2 島根県朝酌郷調査報告書』
- 朝酌公民館運営協議会2001『朝酌郷土誌』
- 島根県古代文化センター2014『島根県古代文化センター本 出雲国風土記』
- 島根県古代文化センター2021『影印 出雲風土記鈔』
- 島根県古代文化センター2023『出雲国風土記 -地図・写本編-』
- 島根県古代文化センター2024『出雲国風土記 -校訂・注釈編-』
- 関和彦2004「『出雲国風土記』註論 その九(嶋根郡・巻末条)」『島根県古代文化センター調査研究報告書25』
- 平石充2017「いまどき島根の歴史 国引き神話「闇見国」とは?」『山陰中央新報』2017年8月5日付
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更新日:2025年07月11日