調査コラム
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第59回「和田家所在の道標について」
岡崎雄二郎(元松江市文化財課長/2026年8月26日記)
はじめに
平成22年(2010)3月10日午前のことである。松江市文化財保護審議会委員(当時)の乾隆明氏から次のような電話があった。
「…うちの近く(末次町)の和田さんの庭にある石柱の道標【写真1】のことだが、和田家の方から岡本石材店(同町)に『刻んである文字が見えにくくなったので、はっきりわかるように文字を深く彫り直してください』と頼まれたそうだ。持ち込まれた石柱を見た岡本石材店のご主人は、赤鉛筆でえどってみたが、何と彫ってあるか分からない【写真2】。ということで私に判読の依頼があった」
【写真1】和田家中庭の道標
【写真2】岡本石材店に運ばれた道標(左側面)
しかし、乾さんもよく分からないため、「松江石造物研究会のあなた(岡崎、当時・松江市歴史資料館整備室顧問)に現物を見てもらいたい」とのことであった。
依頼を受け、早速同日夕に乾氏と共に岡本石材店へ行き、現物を見たが、やはりよく分からないので、拓本を採ってみれば判読できるのではないかと思った。
そこで3月12日夕、和田宅に赴き、これまでの経過をお話し、このような道標は江戸時代の貴重な文化財であり、松江市内でも希少なものであるので、手を加えるのではなく、そのままにして保存していただくようにお願いした。一方で、文字の判読については、拓本を採って検討することを説明して了解を得た。そこで3月14日、文化財課嘱託(当時)の故荻野哲二氏と岡本石材店を訪れ、拓本作業を行った。
2.調査の概要
道標の調査結果概要は以下のとおりである。
(1)所在地
末次町の和田宅の中庭
(2)石柱
石材は直方体に加工した粗い白色系の花崗岩である。高さ76~78センチ、上辺13センチ、下辺14~15.5センチを測る。側面の内、3面は研磨され文字が刻んである。背面は粗割のままとなっている。下面から23.5センチ上位までは土が付着し、そこから上部には苔が付着していたので、23.5センチほど地中に埋め込まれていたことが分かる。
(3)文字
1字が略6~7センチ四方で刻まれ、
正面「右□□(大庭ヵ)道」【写真3】
右側面「古志原村住人」【写真4】
左側面「〇願主七郎左衛門」【写真5】
と読める。
【写真3】正面拓本「右□□(大庭ヵ)道」
【写真4】右側面拓本「古志原村住人」
【写真5】左側面拓本「〇願主七郎左衛門」
3.これまでの紹介資料
その後調べてみたところ、この道標はこれまでに以下の資料で紹介されていた。
(1)「末次苧町:一、末次町拾遺」『松江八百八町町内物語 末次の巻』1956年刊、195頁
往古荒隈土手筋があった頃、この町から道ふたまたとなり、黒田より往来の枝道があったと古老覚書にある。黒田屋と称した和田家の庭から発掘された「指導標」はその貴重な裏付けである。これは七十年ほどまえ大社大地震のあと庫を建てるため土突きしていて発見されたもので「右大庭道 願主七郎右衛門」と彫った道標が立ったまま埋もれていたのである。
ここに見える「70年前」は、明治20年頃ということになる。
(2)『雑賀の今昔』1991年刊、69~70頁
天保年中(一八三〇~一八四四)末次本町通りやや西より、道路の北側和田久之助宅で土蔵建築工事の折、高さ二尺五寸(約七十六センチ)、方五寸(約十五センチ)角の御影石の道しるべが発見された。その銘に、
左側 右大庭道
正面 願主七郎左衛門
背面古志原村住人
と彫られている。右大庭道とあるから道の北側にたてられていたもので、この道は土手道とこの辺りで分岐し、それより西へ向かって佐田屋小路、宮の町から国屋、舎人坂から佐陀への往還であったのであろう。
この記述から、道標が主要な往還の分岐点に立っていたと考えている。発見の事情については、和田さんの奥様の談によれば、「家の北側の片原町側に庫を建てたところから出土した」とのことで、合致している。
(3)和田さん宅にあった道標の古写真
底面に小さな円礫を2個かませ、直立させた状態の写真である。写真台紙には「Seiundo(青雲堂)」「松江市殿町」「村田」の表記があり、明治時代に撮影されたものとのこと。道標が大切に取り扱われていたことを知ることができる。
4.若干の考察
このような発見の経緯があるにせよ、判読できた前記の刻字の内容からすれば、以下のようにまとめられる。
- 古志原の住人がお金を出してこの道標を建てたこと
- 旅人が行く先を戸惑うような道の分岐点に建てられたであろうこと
- 恐らく左手は古志原地区内の道で、右手は大庭方面へ行く道ではなかったか
このように考えるならば、この道標は元々末次町の黒田屋(和田家)の敷地内や道路に面してあったとは考えにくく、むしろ古志原地区の大庭寄りの道路分岐点の傍らに南面して立っていたと考えるのが自然ではないか。おそらく、松江城下からの主要道を歩き、今の緑山公園から広瀬往還を降りてきて現在の松江工業高校の前の三叉路の道に差し掛かったあたり【図のA】で、旅人がしばしば迷ったのではないか。それを心配した地元古志原村の住人七郎左衛門が資金を拠出してこの道標を立てたのではないかと想像される。あるいは、上乃木三叉路の北側道路沿い【図のB】でもよいかもしれないが、もう少し検討が必要である。
【図】松江市古志原、上乃木附近図(国土地理院発行2.5万分1地形図を加工して作成)
A:広瀬往還と松江工業高校前の三叉路
B:上乃木三叉路
C:浜乃木三叉路
それでは、元々古志原地区(あるいは上乃木地区)に立っていた道標が、どうして末次町の和田家の中庭にあったのだろうか。関連資料が無いのでこれは推測だが、江戸時代から明治時代にかけて、和田家は代々多岐にわたる商売を営んでいたので、何らかの事由で道標を入手し、それを中庭の景物として立てたことが考えられる。
なお、同様の道標は松江市新町の本誓寺にもあって、『雑賀の今昔 社寺編』(2000年刊、24頁)に『松江市誌』(1941年刊、1485頁)を引用するかたちで紹介されている。これによれば、元本誓寺の門前、竪町三叉路に札所巡りの巡礼の人向けの案内道標が立っていた。その後、数個に折損したが、これらを接合して庭内に保存していた。高さ三尺二寸(約90センチ)、幅五寸八分(約18センチ)と四寸九分(約15センチ)の花崗岩製石柱で、石柱の北面に「當国巡礼札所道」、左面に「米子 伊勢道」、右側に「施主飯石郡吉田村」、裏面に「願主米谷氏」とそれぞれ彫られていた。ただし、この石柱は昭和43年(1968)の国道9号線拡幅工事の折りに行方不明となり、実物は現在確認できない。
また、松江市の浜乃木町の国道9号と市道が三叉路で接する所【図のC】に、形状は異なるが地蔵さんが祀られている【写真6、7】。来待石(凝灰質砂岩)製で、正面に高さ約60センチの地蔵菩薩立像を陽刻し、右側面に「文久二□年八月/谷 若連中」、左側面に「右/大社・札所・玉造/道」と字が刻まれている(『歴史の道 調査報告書第二集』1996年刊、11頁)。街道の一丁地蔵として、道が交差し、札所巡りなどで旅人が行き先に迷うところに設置されたものである。
【写真6】浜乃木の地蔵道標
【写真7】浜乃木の地蔵道標(左側面)
さらに類似するものとして、松江大橋の中心部にあったとされる「出雲国里程元票」と彫られた石柱がある。来待石製だが形状、大きさは不明。八軒屋町の源助公園内にあったようである(今は埋められたか?)。これは平成22年当時の調査概要の表に自分で記載しているもので、これこそ大変貴重なものだが、当時一体誰からこの話を聴取したか、記憶がない。今後も関係資料を調査する考えである。
この記事に関するお問い合わせ先
文化スポーツ部 史料・埋蔵文化財課
電話:0852-55-5284(調査企画係)、0852-55-5293(発掘調査係)、0852-55-5388(文書館準備係)
ファックス:0852-55-5571(調査企画係・発掘調査係)、0852-55-5495(文書館準備係)
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更新日:2026年09月02日