調査コラム
令和2年(2020)4月より書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」、今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。
過去の「調査コラム」「市史編纂コラム」は以下のリンク先をご覧ください。
第53回「松江を壇場とした伊勢御師たち」
(島根県立古代出雲歴史博物館学芸企画課長/松尾充晶/2025年8月13日記)
はじめに-「伊勢御師」とは-
御師とは、特定の社寺に所属して布教活動をおこなう宗教者です。江戸時代には出羽三山・信濃善光寺・高野山・出雲大社など全国各地の有力社寺にそれぞれ御師がいました。その中でも特に規模が大きかったのが伊勢神宮の御師で、門前町である伊勢の宇治・山田には御師たちの邸宅が密集して建ち並んでいました。明治4年(1871)に新政府による神宮改革のなかで御師制度が強制的に廃止されるのですが、その直前時点でじつに719家もの伊勢御師が存在していたのです。なお「御師」を一般的には「おし」と読みますが、伊勢に限っては「おんし」と読みます。
御師の主な活動には(1)社寺門前で信者を迎えて宿泊させ、祈祷神楽などをおこない、参詣を取り次ぐことと、(2)信者の地元へ毎年出向いて御札(おふだ)を配り廻ること、の2点がありました。(1)による宿泊・神楽料、(2)による初穂料は莫大な利益を生みます。御師はそれぞれ特定エリアの信者(檀那)を独占的に抱え込んでおり、その利権は株として売買・譲渡されることもありました。こうした受け持ちエリアのことを「壇場」といいます。本コラムでは、松江を壇場としていた伊勢御師の活動についてご紹介しましょう。
1.伊勢神宮の「御祓大麻」
まず初めに見ていただきたいのが【写真1】です。これは松江市宍道町東来待の旧家、土江家で保管されていた木箱で、その中には計94点もの伊勢神宮の御札が納められていました。神宮の御札を御祓大麻(おはらいたいま)といいます。紙で包んだだけの剣先タイプと、スギ薄板を組み合わせた箱タイプがありますが、土江家で保管されていたものはすべて箱タイプでした。箱内部には、細長く裁断した紙を巻き付けた、割り箸のような棒が収められています【図1】。これが御祓大麻の真髄にあたる祓串(はらえぐし、御真(ぎょしん)とも言う)で、罪・穢れ・災厄を祓い清める道具、大麻(おおぬさ)を小型化・象徴化したものです。神主がご祈祷の際にバサッバサッと振るアレ、ですね。
伊勢御師は毎年1回壇場を訪問し、新しい御祓大麻を配って廻りました。不必要になることを、「おはらい箱になる」と言いますよね。これは、新しい御祓大麻を受けると、古いものが不要になる(神棚から下げられる)ことに由来する、といわれています。土江家の場合は、前の年の御札も決して「おはらい箱」にせず、わざわざ特製の木箱まであつらえて大切に保管していました。これは「古い御札をたくさん集めると災い除けの効果がある」と信じられていたためで、全国で似た事例が報告されています。信心深かった土江家では、1780年代(天明頃)から明治初頭までの約80年分が、大切に保管されていました。

【写真1】御祓大麻、島根県立古代出雲歴史博物館蔵(土江家旧蔵)

【図1】御祓大麻(箱タイプ)の構造
2.内宮と外宮-それぞれの御師たち-
伊勢神宮が内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)からなることは良く知られていますが、明治維新以前は両者の独立性が今よりはるかに強く、それぞれ別個の神職組織がありました。御師による配札(=御札を配ること)活動も別々におこなわれていたため、信者は内宮・外宮双方から御祓大麻を受け、双方へ初穂料を納めていたのです。土江家の場合も、内宮・外宮それぞれの御祓大麻が保管されていました【写真2】。内宮のものが「内宮 天照皇太神宮」と明記されるのに対し、外宮のものはただ「大神宮(太神宮)」とだけ表記されており、「外宮」「豊受」の記載はありません。こうした表記が異なる以外は、大きさ・形状などはどれも似通っており、ほとんどばらつきがありません。当時、全国に伊勢神宮の信者は400万軒以上もあり、伊勢の宇治・山田では常に膨大な数の御祓大麻を製作し続ける必要があったため、その生産体制は細かく分業化・専業化され、規格性の高いものが大量に作られていました。

【写真2】【写真1】の一部
内宮(左)と外宮(中)の御祓大麻/内部に収められている祓串(右)
また、表面下段にあるのは、御祓大麻を発行(配布)した御師の氏名です。現代では御札に発行者名を表記するなど考えられませんが、御師制度の最盛期である江戸時代には、御師と檀那の結びつき(これを師壇関係と言います)がとても強固で、他の御師が割り込んでくる「壇場荒し」は許されませんでした。ちなみに御師が名乗る「○○大夫」は本名ではなく襲名する名跡のようなもので、代替わりしても、御師株が別人へ売買譲渡されても、同じ御師名を名乗りました。信者にとってみれば、「我が村はお伊勢の○○大夫さんに世話になっている」という安心感が重要だったのでしょう。
出雲を壇場としていた内宮の御師には、藤波神主(島根郡19町・松江藩士を対象)、腹巻大夫(杵築町方・松江町方)、坂三頭大夫(松江)、佐八神主(町方)の4家がありました。内宮御師の活動は松江城下や杵築など町方に集中・限定されており、在方については松江城下の周辺地域にあたる意宇郡(のち八束郡)だけが藩から認められていたようです。概して、内宮より外宮の方が御師数は圧倒的に多く、門前町も大規模で、全国での配札活動も活発でした。東来待村の土江家が保管していた御祓大麻の内訳が、内宮11年分に対して外宮83年分と差があることにもあらわれています。
3.外宮の御師、三村梶助大夫の活動
いっぽう外宮の御師である三村梶助大夫は、出雲国内一円の村々に至るまで、24,579軒の檀那を持っていました(安永6年[1777]時点)。全国的に見ると、複数の御師が一国内の檀那を分割して持つのが一般的ですので、出雲国のように一人の御師がほぼ独占してしまうのは少々不思議なあり方です。三村は出雲のほか山陽~九州地方を壇場としており、計42,956軒の檀那を持っていました。さらに飛鳥井・下冷泉といった公家や、細川家といった武家も「上得意」の檀那としていました。とんでもない大規模・有力御師に感じるかもしれませんが、伊勢全体をみれば檀那10万軒以上をもつ御師もざらにいましたので、「中の上クラス」といったところでしょうか。その三村にとって、自身がもつ檀那の半数以上を占める出雲はもっとも主要な壇場であった、といえるでしょう。
さて、三村梶助大夫は出雲国内でどのように廻壇(檀那を訪問して廻ること)・配札をおこなっていたのでしょうか。それを具体的に伝えてくれるのが、賣布神社文書「諸預届書奥書等控帳」(『松江市内寺社史料調査目録』2014年、群番号1・仮番号4)です。これは御師が松江藩内に滞在することを認めるよう松江藩寺社奉行宛に願い出た文書控えで、文政4~天保9年(1821~1838)分が残っています。これを手掛かりに、出雲国内での伊勢御師の活動を見てみましょう。
三村梶助大夫が活動拠点としたのは、松江城下、白潟明神(現:賣布神社)神主の青砥邸でした。前述した寺社奉行宛の文書も、実際には青砥氏が願い出ています。青砥氏がこのような便宜を計ったのは、松江に伊勢両大神宮を勧請した伊勢宮を所掌していたためでした。この頃、白潟明神(橋姫社)の東隣には、寛永21年(1644)に松平直政の発願によって勧請された伊勢宮が建っていました【写真3】。残念ながら明治7年(1874)の大火で焼失し、今は「伊勢宮町」という歓楽街の地名にのみ、その名残をとどめています。こうした勧請社の存在は、伊勢神宮にしてみれば伊勢信仰の「現地出張所」のようなものです。こうした各地域における信仰拠点を足掛かりにして長期滞在し、活動を展開するのが御師の常道でした。

【写真3】天保年間の「松江城下絵図」(部分)、所蔵・写真提供:松江歴史館
ここまで「御師による活動」と書いてきましたが、御師である三村梶助大夫自身が、壇場である出雲へ廻壇・配札のために来訪することはありません。御師本人は伊勢にある御師邸に常駐しており、全国の壇場から伊勢参りにやってくる信者を宿泊させるとともに、御師邸で執行・奉納される太々神楽の祈祷儀礼を執り仕切っていました。実際の廻壇・配札を担うのは御師の「名代」とされる手代2~3名と下男1名です。彼らが松江藩へ滞在を願い出るのはきまって11月の20日前後でした。配札は、例年師走に始まる、年末年始の恒例行事だった訳です。当初は2ヶ月間余りの滞在を願い出るのですが、予定通りに完了しないのは毎年のことで、延長を願い出てだいたい2月頃に完了、伊勢へと帰る出立の届け出を提出しています。こうして年末年始をはさんで約3ヶ月かけ、出雲国内の村々にいたるまで御祓大麻を配り歩くのが、彼らの毎年の役割でした。
このような長期滞在を前提としても、各村落の個別信者宅を1軒ずつ廻ることなど物理的に不可能です。そこで、村方では庄屋など取りまとめ役に村分の御札をまとめて渡し、さらに初穂料の集金も併せて依頼していました。こうした仲介役を信仰心から進んで担う場合もあったでしょうが、やはり頼みごとの際に大きな効果をもつのが「付け届け」、つまりは手土産です。取りまとめ役や高額奉納者に対しては、その度合いに応じた品を手土産として渡すことが一般的でした。その品目は薬品や食品など様々で、軽くて運びやすいものが選ばれました。ちなみに出雲大社の御師が多用したのが、島根半島で採れる海藻(ノリ・ワカメ・アラメなど)を干したものです【写真4】。こうした手土産は単なる消費財・食品ではなく、祭神の神徳にちなむとか、神仏の加護がある、などといった信仰にまつわる目に見えない付加価値がつけられることで、ローコストであっても受け取る側にはたいそう喜ばれました。

【写真4】出雲大社の御師が配った御札(右)と手土産の十六島海苔、島根県立古代出雲歴史博物館蔵
4.伊勢御師の手土産「伊勢暦」
伊勢の御師が配る手土産として広く知れ渡っていたのが「伊勢暦」です。【写真5】は松江城下の橘泉堂・山口卯兵衛商店(末次本町、現:山口薬局)に伝わっていたもので、わたしが伊勢御師について調べていることを知った村角紀子さん(松江市松江城・史料調査課)から「こんな資料があるよ」と教えていただきました。最初に実見した時は興奮しました。京都で出版された暦は多数見てきましたが、伊勢で刷られて島根県内で配られた伊勢暦を見たのが初めてだったからです(おそらく他にも伝わっているのでしょうが、あまり注目されないせいか、これまで紹介された例を知りません)。

【写真5】伊勢暦(天保11年[1840]分)、松江市蔵(山口薬局旧蔵)

【写真6】【写真5】の部分(拡大)
暦の内容を詳しく見ていきましょう【写真6】。まず冒頭には「伊勢内宮 佐藤伊織」と、発行者名が書かれています。内宮と外宮では暦の版元も別々で、外宮側に暦師が約20軒あったのに対し、内宮側には佐藤伊織1軒しかありませんでした。
次の行には「天保十一年かのえね(庚子)の寛政暦」と書かれています。「寛政暦」とは暦法(陰暦)のひとつで、江戸後期の1798~1844年に使用されました。注目して欲しいのは赤枠で囲んだ箇所で、「正月大 二月大 三月小…」と月ごとの「大」「小」が記されています。現代でも4月が30日まで、5月が31日まで、と月によって日数が異なりますが、江戸時代には「大の月(30日)」と「小の月(29日)」が不規則に、しかも年ごとに異なる複雑な暦法が使用されていました。したがって暦を見なければ今日が何月何日なのかも分からなかったのです。また暦には気候と深く関わる二十四節気が記されているので、農作業のタイミングを知る上でも必需品でした。
このような「カレンダー」としての要素以外に、紙面の大半を費やしているのが陰陽道をベースにした吉凶・運勢にまつわる記述です。例えば青枠で囲った箇所は、吉凶を司る「八将神」が居る方角が記されています。
【例】
「太歳(だいさい) 子の方 此の方に向かいてよろづ良し ただ木を切らず」
「歳破(さいは) 午の方 向かいてわたまし(=転居)せず 舟乗り始めず」
個別の神(歳徳神・金神・八将神)は、年によって居る方角が変わります。しかも、それぞれの神は受け持つジャンルが異なっているので、その神の方角に向かってして良いこと、悪いこと、に注意する必要がありました。面白いのは「豹尾(ひょうび)」という神で、その方に向かって大小便をするのは凶、とされていました。この年は「戌の方」と書かれていますので、人々は「向かいて大小便せず」、つまり戌(=西北西)を向いてトイレをしないように、一年間気を遣っていたのでしょうね。
このほか、暦には宿曜(=占星術の一種)に基づく月ごとの運勢や、日ごとの吉凶判断が細かい字でびっしりと記されています。現代では想像できないくらい神仏への信心に篤かった江戸時代においては、暦が行動判断(して良いこと・悪いこと)の基準でもあったのです。このような文化を背景に、伊勢神宮への信仰・信頼に裏打ちされた伊勢暦は、たいへん重宝されたと言われています。
このような伊勢暦は伊勢御師が御札を配る際に持参し、相手先の家格や初穂料の多少、さらには取りまとめ役の労に応じて「手土産」として渡すものでした。したがって全ての信者がもらえる訳ではなく、農村では村々の頭分や中以上の階層に限られていたようです。前述したように松江藩内では外宮側の御師活動が活発だったので、外宮の暦師、宮崎左近が発行した伊勢暦を受け取ることが多かったようですが、私は実物を見たことがありません。さらに、伊勢暦をもらうことができない者は京都の暦師(大経師降屋内匠)が発行したものを、松江の小間物屋などを経由して購入していました。
今回紹介した山口卯兵衛商店は城下町の有力な商家(薬屋)であり、内宮の暦師、佐藤伊織が発行した天保10〜12年の伊勢暦を受け取り、大切に保管されていました。内宮の伊勢暦自体が、松江城下とその周辺にしか出回らなかった「レア品」です。これと対面できたことは私にとって感激の、幸運な体験でした。
おわりに
テレビもインターネットも無い時代に、遠方から訪ねてくる御師(と、その名代)たちは文化の伝播者であり、民衆にとっては貴重な情報源でもありました。松江藩内においては、伊勢神宮だけでなく祇園社(現:八坂神社)、愛宕社(現:愛宕神社)、鞍馬寺といった京都の有力社寺から、御師たちが毎年やってきて、村々を廻り御札を配っていたことがわかっています。彼らは神仏の功徳を説く宗教者であっただけでなく、文芸に通じた文化人でもありました。藩外への自由な旅行を厳しく禁じられていた松江藩の人びとにとってみれば、珍しい話を聞かせてくれる御師の来訪は待ち遠しい恒例行事だったことでしょう。
本稿ではコラムという性格上、細かな出典や参考文献名は省略しました。ここで述べた内容や、伊勢神宮・出雲大社の御師たちがどのような活動をしたのか、という点については拙論に詳しくまとめていますので、ご関心ある方はこちらもご覧ください。
- 松尾充晶「近世御師の活動からみた伊勢と出雲」『伊勢と出雲』島根県古代文化センター研究論集第33集、ハーベスト出版、2024年
この記事に関するお問い合わせ先
文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
ファックス:0852-55-5495
お問い合わせフォーム
更新日:2025年08月29日