調査コラム
『松江市史』編纂事業が終了し、史料編纂課と松江城研究室は、令和2年(2020)4月から史料調査課、松江城調査研究室として再出発しました。さらに令和4年(2022)4月から新たに「松江城・史料調査課」となりました。今後も課でこの「調査コラム」を執筆していきます。過去の「調査コラム」「市史編纂コラム」は以下のリンク先をご覧ください。
第49回「朝酌と厳島」
(松江城・史料調査課文化財副主任/水野椋太/2025年4月14日記)
はじめに
2024年4月より、松江城・史料調査課で勤務をしています水野椋太と申します。松江市で勤務する以前は、広島県廿日市市にある宮島歴史民俗資料館で、3年間ほど勤務していました。そこでは、厳島に関する調査研究や古文書の整理をおこない、その成果を展示で公開する業務をしていました。そのような業務をおこなうなかで、厳島と出雲・石見国とのつながりが多々あることに興味関心を持っていました。たとえば、現在の厳島神社本殿は、元亀2年(1571)の毛利氏による遷宮の際に建てられたものですが、遷宮の経費には、石見銀山の銀が充てられました。
そして松江市域に関係するところでは、朝酌が厳島神社の所領であった時期があります。なぜ、安芸国に位置する厳島神社の所領が朝酌に存在したのか。朝酌と厳島のつながりについて、紹介してみたいと思います。
(注意)本コラムで『松江市史 史料編4中世2』からの引用は、『松江』文書番号と略記する。
1.厳島町衆児玉肥前守
朝酌と厳島神社の関係を示す初見史料は、次の文書です【写真1・史料1】。

【写真1】毛利元就預ヶ状写(「辛未紀行所収文書」毛利家文庫、山口県文書館蔵)
【史料1】毛利元就預ヶ状写(「辛未紀行所収文書」『松江』1183号)
大明神寄進申候朝酌三百貫内、五拾貫之地預ケ遣之候、弥可抽懇祈者也、仍状如件、
永禄七年申子霜月十八日 元就 御判
児玉肥前守殿
【史料1】は、尼子氏と戦争中の毛利元就が厳島神社(「大明神」)に「朝酌三百貫」を寄進し、このうち「五拾貫之地」を児玉肥前守という人物に預けることを述べています。
まず、発給年次の永禄7年(1564)の政治情勢を見てみたいと思います。前年10月、毛利氏は、尼子方の松田氏が籠る白鹿城を落としています。元就は、白鹿城を攻めるにあたって、「あらハひ崎」(荒隈山)【写真2】に陣を構える考えを示し、「わくら山」(和久羅山)【写真3】を取って、富田城と島根半島との連絡を断ち切る必要があることを述べています(「閥閲録」52兼重五郎兵衛2『松江』1109号)。また、「わくら山」に築城し、「けいこ」(警固・軍船)を中海に進めて、「大こん嶋」(大根島)【写真4】に拠点を構え、宍道湖からの軍船を合流させることで、富田城と島根半島の通路を遮断できると考えていました。写真からわかるように、和久羅山は、宍道湖・大橋川・中海周辺地域を一望することができ、軍事上、重要な場所でした。【史料1】は、白鹿城が落城して約1年後に発給されていますが、この頃には、島根半島の大半が毛利氏の勢力下にあったと考えられます。

【写真2】和久羅山から荒隈山を望む

【写真3】和久羅山

【写真4】和久羅山から大根島を望む
次に、児玉肥前守という人物について、説明したいと思います。児玉肥前守は、「有浦(ありのうら)衆 児玉肥前守」と記されるように厳島の町衆の一人でした(社堂所々棟札控(五・表裏)「大願寺文書」『宮島町史 特論編・建築』1105頁)。「有浦」とは、現在宮島商店街などが存在する東町のことです(厳島は、塔の岡を境に東町と西町に分かれており、西町は社家や供僧らの居住地で、東町(有浦)は商人たちの町でした【地図】)。児玉肥前守は、永禄4年(1561)の厳島神社大鳥居建立の際、脇柱一本の用木調達に携わり、また、元亀2年(1571)の厳島神社遷宮の際には、「警固士」として参加し、遷宮行列の警護を務めていました。すなわち、物資の調達を行うだけでなく、武力も有する存在であり、町衆といっても毛利氏に軍事奉公をおこなう武家被官でした。

【地図】東町(有浦)と西町、国土地理院地図より作成
次の文書は、【史料1】より前に児玉肥前守へ充てた文書です。
【史料2】毛利元就・吉川元春・小早川隆景連署免許状写(「閥閲録」144児玉肥前2『松江』1177号)
其方船諸関勘過役之事、当国在陣中可令免許候、弥馳走肝要候、仍状如件、
永禄七年六月十四日
元就公御判
元春様御判
隆景様御判
児玉肥前守殿
【史料2】は、出雲国在陣中、児玉肥前守が所有する船については、諸関の通行料を免除することを毛利氏が認めたものです。ここから、児玉肥前守が船を所有し、毛利方として軍事活動をしていたことがうかがえます。厳島から瀬戸内海、日本海を経由して、宍道湖・中海で活動したのでしょう。
朝酌周辺は、『出雲国風土記』に朝酌渡が記されているように、古代には大橋川を渡る幹線ルートとして内水面交通の要衝であったと考えられています。中世においても、大橋川の水面に接する朝酌周辺には、船着場が存在し、船舶での年貢輸送を可能とする条件が整っていたと思われます【写真5】。

【写真5】和久羅山から朝酌を望む
ここまで述べてきたことをまとめると、毛利氏は、島根半島の大半を勢力下に置いた段階の永禄7年(1564)11月に、厳島神社へ「朝酌三百貫」を寄進し、その内の「五拾貫之地」を児玉肥前守に預け置きました。これは、児玉肥前守に対する恩賞としての性格のほか、彼が船舶を所持し、活動する厳島の町衆であり、年貢輸送の実務も担える存在であったことが重視された結果とも見ることができるのではないでしょうか。
2.朝酌周辺の状況
つづいて、寄進後の状況が確認できる文書を見てみたいと思います。
【史料3】秋上幸益書状写(「厳島野坂文書」『松江』1585号)〈カギカッコは筆者によるもの〉
追而令啓上候、仍而近年可致祇候覚悟候処、「当国御国次不作付而、無調法を儘致無沙汰候」、 併御立願御礼儀彼是延引令迷惑候、去春可参之由、御家来之衆中へ茂参会申約諾申候処、不思議ニ中風相煩候て、于今然々無之付而遅々候、就其朝酌之儀、私式努々望申儀無之候へ共、従 元就様預ケ被下候条、御判致頂戴候、「然者国次付而、彼在所新山程近候而、一円不作仕候、近年ハ干損彼是以迷惑存候」、雖然御理申候ハす候へハ、神慮無勿体存候間、先去納まての辻冥加与存知、致進上候、至当年毛ノ上能御座候ハゝ、直様取沙汰仕度存候、万事御取成仰候、於此国相当之御用等蒙仰、不可存余儀候、何篇加養生致社参、積御礼可申述候、委細者此者可申入候、恐々謹言
天正四年 秋上三郎右衛門尉
正月十四日 幸益
種盛殿(棚守房顕) 参 御宿所
【史料3】は、天正4年(1576)正月に、秋上幸益が厳島神社社家棚守房顕へ充てた書状です。秋上幸益は、元亀元年(1570)と推定される5月、毛利氏によって「浅汲代官」として支配を認められています(「新出北嶋家文書」『出雲国造北嶋家文書』57号)。【史料3】では、朝酌の代官であった幸益が、厳島神社へ年貢を納める役割を担っていたことが確認できます。少し長い文章のため、カギカッコの部分に注目してみたいと思います。
まず「当国御国次不作付而、無調法を儘致無沙汰候」では、出雲国全体(「当国御国次(くになみ)」)が不作であるため、年貢の納入が遅れている旨を弁明しています。つづいて、「然者国次付而、彼在所新山程近候而、一円不作仕候、近年ハ干損彼是以迷惑存候」では、不作の状況を述べており、天候不順による「干損」だけでなく、朝酌が新山に程近いため、一層ひどい不作であったことが判明します。尼子勝久による尼子家再興戦は、元亀2年(1571)8月の新山城からの勝久軍撤収により、出雲国が主戦場となる状態は終わります。しかし、戦乱の影響による田畑の荒廃は、【史料3】からうかがえるように、天正4年(1576)頃まで続いていたのです。
不作の状況ではあったものの、【史料3】ののちに、秋上幸益が年貢を調えて厳島神社に納入したことが、次の文書から確認できます。
【史料4】毛利氏奉行人書状(「厳島野坂文書」『松江』1589号)
為朝吸(汲)土貢、従秋三右(秋上幸益)銀子六百目被持下候之条、対御使衆渡申、五ツニわけ一分之事、児玉肥前守ニ可被相渡候、分様奉書之帋面如此候、恐々謹言、
天正四年 児玉三郎右衛門尉
二月十五日 元良(花押)
棚守左近衛将監殿
児玉肥前守殿
大願寺 まいる
【史料4】は、棚守房顕、児玉肥前守、大願寺(厳島神社の修理造営を担当)に対して、毛利氏奉行人の児玉元良が発給した書状です。これによれば、秋上幸益が調えた「朝吸(汲)土貢」は、「銀子六百目」で納入し、厳島神社の使者に渡されたことがわかります。また、そのうちの五分の一は、児玉肥前守に渡すように命じています。不作の影響もあったと考えられますが、遠隔地からの年貢納入において、銀を用いたことが確認できる興味深い文書です。
最後に、いつ頃まで朝酌が厳島神社の所領であったのか、紹介したいと思います。天正17年(1589)11月、厳島神社祭料・御供田を記した付立(つけたて)に、「一 朝汲 三百貫 大願寺 棚守 児玉太郎左衛門尉取用」と記されています(「野坂文書」『松江』1996号)。この頃、毛利氏は領国全体にわたる検地(惣国検地、天正15~18年・1587~90)を実施しており、この付立は、検地後の所領打渡作業のために棚守氏側から提出されたものとみられます。惣国検地ののちに、厳島神社の所領は、神社が位置する安芸国佐西(ささい)郡などに限定されます。したがって、惣国検地の頃まで厳島神社の所領として朝酌が位置づけられていたのです。
以上、断片的な情報で不明確な部分が多いものの、約25年の限られた期間に朝酌と厳島のつながりが確認できることは、興味深い事実と言えます【写真6】。

【写真6】厳島神社
おわりに
本コラムでは、朝酌と厳島のつながりを史料から見てきました。地域の歴史や文化財にかかわる調査研究を進めていると、地域間のつながりや人々の活動の広さに驚かされることが多いです。現在も、文化財の保存、調査研究などの活動を通して、様々な地域や多くの人々に出会う機会があり、その出会いからは、たくさんの学びや気づきがあります。文化財を通した出会いを大切に、そして次の世代へ文化財を継承していくため、自分に出来ることは何か、日々考えながら職責を果たしてまいりたいと思います。
参考文献
- 秋山伸隆「惣国検地の実施過程」(『戦国大名毛利氏の研究』、吉川弘文館、1998年)
- 本多博之「戦国大名毛利氏の厳島支配と町衆」(『安田文芸論叢 研究と資料』、2001年)
- 本多博之『天下統一とシルバーラッシュ―銀と戦国の流通革命』(吉川弘文館、2015年)
- 『松江市史 通史編2 中世』(松江市、2016年)
この記事に関するお問い合わせ先
文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
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更新日:2025年04月14日