調査コラム2
令和2年(2020)4月より書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」、今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。
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第54回「松江市の新収蔵資料紹介(5)―山口薬局文書」
村角紀子(松江城・史料調査課歴史史料専門調査員/2025年11月25日)
はじめに
本シリーズでは、近年松江市が収蔵した「民間アーカイブズ」を紹介しています。第5弾となる今回は、令和 3年度(2021)に収蔵した商家文書「山口薬局文書(やまぐちやっきょくもんじょ)」をご紹介します。
本文書群は、松江大橋北詰の山口薬局(橘泉堂・山口卯兵衛商店、松江市末次本町)【写真1】に伝来したものです。平成29年(2017)の蔵の改修工事をきっかけに、同年8月から松江市史料編纂課(当時)が順次中の文書を運び出して調査と目録作成を行いました。工事終了後、ご当主家族と文書群の取り扱いを相談した結果、一部の私的文書等を返却の上、残りを市に寄贈いただくことになりました。
【写真1】現在の山口薬局店舗外観(2025年10月撮影)
本文書群の総点数は1177点、作成年代は文政9年(1818)~平成16年(2004)にわたります。江戸時代後期の薬品調剤書【写真2】や明治大正期の取引記録【写真3】、薬学関係雑誌といった業務に関するもののほか、幕末の小作関係文書、店舗や家族、市内名所を撮影した古写真【写真4】等が含まれており、松江城下のまとまった商家文書として貴重なものです。なお、同店主屋も平成31年(2019)に松江市の歴史的建造物に登録されています【写真5】。
【写真2】山口薬局文書3-1「丸散御注文控帳」、同3-2「妙薬調方記」
【写真3】山口薬局文書3-30「薬用阿片売買控」明治12年ほか(8点)
【写真4】山口薬局文書7-7「山口橘泉堂」店舗前の従業員集合写真、明治期
【写真】「山口薬局主屋」が松江市歴史的建造物に登録されたことを示すプレート
1.山口薬局の歴史
山口薬局の創業は安永元年(1772)とされます。末次大年寄を歴任した名家・木屋太郎左衛門の分家にあたるため、分家当初の屋号は「木屋」といい、店主は代々「卯兵衛」を名乗りました。なお、本家出身者には幕末の知識人として知られる山口巻石がいます。
明治期の銅版画入りタウンガイド『山陰道商工便覧』(明治20年)には、発行当時、松江大橋たもとに移転したばかりだった山口卯兵衛の店舗が描かれており、説明文の「和漢洋薬種商」とある下には「独乙国製凹凸目鏡、香具香水石鹸類、医療用諸器械、舶来染粉、西洋酒類」と舶来品が列挙され、ハイカラな商いの様子が伝わってきます【写真6】。
【写真6-1】『山陰道商工便覧』より山口卯兵衛商店、左に松江大橋が見える
【写真6-2】同上部分図、「西洋酒売捌所」の看板が見える
ちなみに、同店は別名「橘泉堂」といいます。これは幕末の将軍侍医から陸軍軍医総監となった松本良順(1832-1907)【写真7】が明治21年(1888)4月に松江に滞在した折、山口方に約3週間投宿して近隣の患者の診療にあたったのをきっかけに名付けたものです。店内には今も松本良順が揮毫した「橘泉馨」の額が掲げられています。「橘泉」とは、「杏林」と同様に、良医もしくはその家(医療機関)を意味する言葉です。また、「馨」の字は「よいにおいが遠くまでかおること」を意味しますから、きっと様々な漢方薬の香りが漂う、評判の高い薬店だったのでしょう。
【写真7】山口薬局文書7-2-1「松本順君(良順)」手札写真
2.山口薬局文書の古写真から
本文書群の古写真から、特徴のあるものをいくつかご紹介します。
【写真8】(山口薬局文書7-32)は、木枠入のガラス乾板です。着物姿の若い女性が硬い表情でテーブル横の椅子に座り、手には煙管入、豪華な絨毯に触れる足下は下駄も草履も履いておらず白足袋、という少し不思議な格好で写っています。これは共箱の蓋裏にある「明治十三年庚辰九月吉日/天神境内吾郷ニ於テ之写シ」という墨書から、明治13年(1880)9月、白潟天満宮の境内にあった吾郷写真所で撮影されたものと分かります。当時まだ珍しかった写真を撮られる緊張感、眉を落とす既婚女性の風俗や喫煙の風習、一応洋風のスタジオセットなのに敷物の上で履物を脱いでしまう生活習慣など、様々なものが読み取れて興味が尽きません。
【写真8】山口薬局文書7-32「女性写真」木枠入りガラス乾板、吾郷写真所、明治13年撮影
【写真9】(同7-37)はこれまでも何度か展覧会や刊行物で紹介されたことのある、松江城天守を撮影した写真です。荒廃した明治初年の天守古写真をご覧になったことがある方も多いと思いますが、この写真の天守は随分ときれいになっています。それもそのはず、これは明治27年に行われた天守修繕を終えた後に撮影されたものなのです。当時の新聞に出された天守修繕の入札広告には、発起人の一人として山口卯兵衛の名も見えるので、修繕完了後に関係者に配られた記念写真だったのではないでしょうか。台紙には額縁風の赤い枠が印刷され、下中央のラベルには「長州萩小橋筋/村田正吉/松江市殿町京橋西河岸」とあります。ここから、撮影者は萩の写真館村田青雲堂の息子・村田正吉であり、明治27年当時、ちょうど萩から松江に出張して営業していた際に撮影されたことが分かります。
【写真9】山口薬局文書7-37「松江城天守写真」村田正吉、明治27年撮影
【写真10】(同7-47)は、大阪の中之島図書館本館の正面玄関前で撮影された修学旅行記念写真です。松江中学(当時の名称は島根県第一中学校)の男子学生と教職員一同が図書館の石段前に大集合しています。同館本館は明治37年(1904)竣工、大正11年(1922)には左右に新館が増築されました。ともに昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されています。外観はネオ・ルネサンス様式で、壮麗なコリント式円柱はギリシャ神殿のようです。台紙には「大阪市本町壱丁目/森田写真館/Y. Morita」とあり、正確な撮影時期は不明ですが、大正期と思われます。当課発行の『松江市ふるさと文庫35:旅するしまねの学生たち―修学旅行が語る近代の旅―』(面坪紀久著、令和6年刊)では表紙に用いました。
【写真10】山口薬局文書7-47「大阪図書館前集合写真」大正期
3.ハーンとビールと山口薬局
さて、山口薬局は、「へるん先生」ことラフカディオ・ハーン(後の小泉八雲)が松江で島根県尋常中学校の英語教師を務めていた明治23年から24年頃、女中さんにビールを買いに行かせていた、というエピソードでもよく知られています。
へるん先生が当時飲んでいたビールの銘柄は何だったのでしょう? 『松江に於ける八雲の私生活』には「朝日ビール」とありますが、大阪麦酒株式会社(現アサヒビール)がその製造を始めるのは、少し後の明治25年からです。
そこで山口薬局の先代の奥様(現当主のお母様)が推理したところ、同店四代目の山口嘉太郎氏【写真11】が修業に出されていた大阪の道修町にある小西儀助商店製造「アサヒ印ビール」だったのではないか、とのこと。これは明治17年から数年間のみ製造されたもので、黒ビールに近い味で当時の日本人の口には合わなかったと伝えられています。でも、アイルランド系であるハーンには懐かしい味だったかもしれませんね(言うまでもなく、アイリッシュビールの代表格は黒ビールのギネスです)。その後、「アサヒ」の商標は大阪麦酒株式会社に譲渡されました。
【写真11】山口薬局文書7-49「薬剤師手札写真(複写)」より山口嘉太郎氏
山口薬局では、「まちかど博物館」と銘打ち、座敷を開放して店に伝わる品々の展覧会を定期的に開催しています。最近特集されたのはまさに「ビール」!! 明治から昭和初期のビールの瓶やラベル、カレンダーなどのビール会社販促グッズ、広告用の手描きの幕などを間近に見ることができます【写真12、13、14】。
【写真12】山口薬局「まちなか博物館」展示より明治大正期の酒瓶、ビール瓶
【写真13】山口薬局「まちなか博物館」展示より、昭和初期のビール販促グッズの日めくりカレンダー
【写真14】山口薬局「まちなか博物館」展示より、明治40年代頃の「カブトビール」広告用幕
おわりに
ご存じのように、現在放送中のNHKの連続テレビ小説「ばけばけ」は、明治期の松江が舞台であり、ハーンとその妻・小泉セツがモデルとなっています。このドラマに登場する「山橋薬舗」は山口薬局がモデルとなっており、山口薬局文書の古写真も参考資料に使われています。トミー・バストウさん演じるヘブン先生も、いよいよこの山橋薬舗で「beer」を購入し、堪能していらっしゃいましたね…。今後、山橋薬舗を舞台にどんな物語が展開していくのか、ワクワクしながら見守っているところです。
参考文献
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川崎源太郎編『山陰道商工便覧』龍泉堂、明治20年刊(だるま堂書店復刻版、昭和53年刊)
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桑原羊次郎著『松江に於ける八雲の私生活』山陰新報社、昭和28年刊
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島根県写真作家協会写真史編集委員会編『島根県写真史』浜田周作、昭和63年刊
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山口純一「木屋と松江大橋」『湖都松江』36号、平成30年11月刊
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大阪府立図書館ホームページ「建物紹介 : 大阪府立中之島図書館」
https://www.library.pref.osaka.jp/site/nakato/tatemono.html
この記事に関するお問い合わせ先
文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
ファックス:0852-55-5495
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更新日:2025年08月08日