調査コラム2
令和2年(2020)4月より書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」、今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。
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第52回「松江城大手前の舟入」
岡崎雄二郎(元松江市文化財課長/ /2025年7月31日記)
はじめに
ここに1枚の古写真がある【写真1】。東京科学大学(旧・東京医科歯科大学)名誉教授である若松秀俊著『新版 四つ手網の記憶 日本の心を愛したカルシュ』(2017年1月発行、杉並けやき出版)180頁右下(旧版では190頁)に紹介されている。
撮影者はフリッツ・カルシュ博士で、大正14年(1925)から昭和14年(1939)にかけて来日し、14年間、旧制松江高等学校のドイツ語教師として松江の奥谷町の外国人宿舎に住んでいた。哲学者でもある先生は、授業の傍ら日本人の暮らしぶりに大いに関心を寄せられ、数多くの写真やスケッチ画を残している。
紹介するこの写真は、城山公園を訪れた時に撮影されたものだが、大手前広場の旧状を見ることのできる大変貴重な写真であることが分かった。日頃、松江城を調査・研究する者としてぜひ詳しく知りたいと思い、今回、カルシュ博士の資料を整理された若松先生の承諾を得て、写真に一体何が写っているか細かく検討・推察してみた。なお、写真は現在、東京のカルシュ博士顕彰会で管理されている。

【写真1】フリッツ・カルシュ博士撮影「松江城 二の丸跡広場」(若松秀俊氏提供)

【参考】写真1の景色の現状
(中櫓の南方、塀の狭間からほぼ同じアングルで岡崎撮影)
1.どこを写したか
写真のキャプションには「松江城 二の丸跡広場」とあるが、相当上から見下ろした景色に見えるので、撮影場所は二之丸の南部である。被写体は、松江城の入口の大手前広場が中心である。
撮影場所の二之丸の南部は、松江城下が眺望できる人気の場所で、櫓跡に数軒の茶店が開業し、市民の憩いの場所であった。今のように復元された土塀も無いので、市街地を見下ろすには絶好の場所であった。カルシュ博士も、ベンチに座りここから城下の景色を眺めたに違いない。
大手前広場
大手前広場は、江戸時代には「勢溜(せいだまり)」で、城への出入り口が「勢溜」の北西部にあり、「大手の柵門」で厳重に封鎖されていた。写真では自動車や歩行者らしき姿が見える(以下、【図1】描きおこし図参照)。横長の黒いものは、楽
広場の南東角には、東方へ走る幅広の大きな道路らしきものが見える。これが道路だとすれば今の「大手前通り」ということになる。広場の南西部には高さのある街灯のような柱が立っている。目測で約5mはあろうか。
その柱の手前(西側)にも樹木が1本見えるが、樹種までは分からない。枝振りが不自然な円弧に見えるので、或いは、何かしらの装飾物かも知れない。

【図1】写真1の描きおこし図(岡崎作成)
馬溜南の堀石垣
【写真1】の左側(北側)には、「馬溜」を形成する低い石垣が東西方向に走り、広場に接する辺りで北へ折れているようだ。その先に「大手柵門」が取り付いていたのだろう。この石垣の天端には恐らく松であろう大木が数本見える。
舟入の石垣
そして低い石垣の南東角付近から、さらに東方の広場に食い込むように一段と低い石垣が見える。高さは目測で1m余あるのだろうか。そして広場に見える自動車のある辺りで南方へほぼ直角に折れて20mくらい直進する。その南端は、前述した街灯様の柱と樹木(又は装飾物)が生えている辺りで、また直角に西方へ数m行き、さらに南方へ折れている。ここは、江戸時代の古絵図と比較すると、名称はついていないが「舟入」つまり、舟着場だったと推定される【図2】。築城当時、大量の石垣石材が必要とされ、大井や大海崎、忌部地区など近隣の石切り場から亀田山に運ばれてきてここで陸揚げされたのではないか。
もちろん、宍道湖端の末次地区から陸揚げして、亀田山まで陸上輸送したという伝承もあるので、複数の搬入ルートがあってもよいだろう。或いは、建築(作事)工事関係の材木や瓦など重量物を陸揚げしたことも当然考えられるだろう。松江城下町遺跡の発掘調査では、大手前広場のすぐ東で柱材など大工仕事をしていたことを証するカンナ屑が発見されていることからも頷ける。

【図2】「舟入」の位置図(岡崎作成)
堀石垣と内堀
これらの堀石垣で囲まれた外側は、内堀となっている。よく見ると、あちこちに岩盤なのか、ヘドロのような堆積物だろうか、よく分からないが堀底は平らではなく凹凸がある。相当水位が低くなった時に撮影されたようだ。
堀石垣の際(きわ)はヘドロのような土砂が堆積している。その深さも約1m余であろうか。南部の堀石垣の際には、白く写る人工物が2つあるが、ボートのように見えなくもない。北側一辺の堀石垣の際は、石と土で覆われて辺りが出っ張っており、石垣と水際が判然としない。案外ここに石段が埋もれているかもしれない。
堀石垣の北側の写真手前は、石垣水際の線が斜めに上がっていくように見える。これは、現状の地形と比較すると、亀田山の岩盤(軟砂岩層)が露出しているので、写真の手前部分は同様に水際より高く、岩盤が露出して見えていると考えられる。
2.絵図資料の比較
この舟入施設は、絵図ではどう描かれているのだろうか。

【絵図資料1】
「堀尾期松江城下町絵図」(島根大学附属図書館蔵、寛永5~10年、1628~1633)
石垣を水色で、内堀を紺色で表す。二之丸高石垣の直下は、地盤の表現は無く、直接内堀となっている。舟入の付近は馬溜南辺石垣の南東角から、舟入の東辺が南方向へ走っていることが注意される。その先端から西辺方向へは直角ではなく、やや南へ角度の触れた線で描かれている。三之丸の東の御門に向く手前の両側勢溜も同じ表現である。描き手の癖であろうか。

【絵図資料2】
「寛永年間松江城屋敷町之図」(丸亀市立資料館蔵、寛永11~14年、1634~1637)
「堀尾期松江城下町絵図」を下図にしていると考えられているが、石垣は灰色、堀は薄い灰色、城郭建物は白色、平地部分は赤色で描かれている。舟入部分は馬溜南辺石垣の南東角から、さらに東方へ入り込んでいる。各辺の角は直角に折れる平面形で描かれている。二之丸高石垣の直下は、地盤の表現は無く、直接内堀となっている。

【絵図資料3】
「松江城正保年間絵図」正保年間(1644~1648)国立公文書館蔵
大手前広場から馬溜へ入る出入り口は、「大手口」と記されているので、広場全体は「大手」と呼ばれていたであろう。三之丸を囲む内堀は、その北東側でさらに大手へ入り込んでいる。平面形は直線的ではなく、曲線を描く。
その横の二之丸南端部は、馬溜の西側高石垣や中櫓~南櫓にかけての高石垣の平面分布と支持地盤調査の結果を見ると、築城前は、中櫓付近まで亀田山丘陵の最先端部だったところと推定される。南櫓付近は、丘陵先端部が急激に下がり、盛土して櫓を構築しているので、基礎が弱かったとみられ、そのため、高石垣際まで丘陵を削平せず、地盤は高石垣と水面の間に残すようにしたのではないだろうか。その結果、舟入に向けて、曲線を描く平面形となったと考えられる。なお、堀内には、墨書で堀の幅や深さなどの漢数字が書かれていると思われるが、同系色なので読み取れない。

【絵図資料4】
「松江城縄張図」17世紀末、松江歴史館蔵
馬溜の「土居」の南側堀石垣(紺色紙)の二之丸高石垣から約4間~4間半外側に薄茶色の紙が貼り付けてある。これは亀田山丘陵の地盤の水際を表わしている。その外側には3方には「川」と書かれ、つまり内堀を示している。
南側「土居」の堀石垣の南東角から、さらに紺色紙が11マス(19.8m)東まで、南へ1マス傾斜しながら貼られそこから約1.5マス(約2.7m)斜めに貼られ、さらにその先から南方へ18マス(約32.4m)貼られている。さらに、紺色紙は欠落しているが、本紙の色の変化の差をよく見ると、紙の貼ってあった部分は周囲の露出した部分より白いので、その先から西方向へ直角に10マス(約18m)は、本来は紺色紙が貼り付けてあったことが分かる。その先は紙が貼られていたかどうか観察では不明である。

【絵図資料5】
「諸国城郭修復図」安永2年(1773)、東大史料編纂所蔵
二之丸南先端部の中櫓から南櫓にかけての高石垣の直下は、「松江城縄張図」に描かれている地盤の線が、馬溜側の中ほどまでさらに広くなっているような感じがする。
舟入は、東西方向に長く全て直角となる平面形で描かれているが、南辺の東西方向の線が相当長すぎるのではないかと考える。この時期に大規模に改変された記録が無いので、信ぴょう性が疑われる絵図である。

【絵図資料6】
「御本・二・三丸御花畑共略絵図面扣」江戸末期(1860年頃)野津敏夫家蔵
舟入は北辺と東辺がやや鈍角で、東片と南辺は直角で接していると見られる。北辺のラインと馬溜南辺の石垣のラインは、わずかに振れがある。二之丸高石垣直下の地盤の高まり、平面ラインは「諸国城郭修復図」と変化が無い。
3.絵図に見る舟入の変遷
築城時の【絵図資料1】では、馬溜南の堀石垣の南東角から南へ入り込んでおり、大手前の広場には食い込んでいない。次の段階、京極期の【絵図2】では大手前広場に食い込むように描かれ、東西線が南北線より長い長方形と変わっている。【絵図3】では、正副共に南西角の線が、丸く曲線となっている。その後も幕末の【絵図資料6】、さらには昭和期の「松江城山公園設計図」(「松江市城山公園改造計画設計案」付図、1929年)に至るまで多少の形態の差異はあるものの、基本的に大手前広場に食い込んだ形の舟入が表現されている。
舟入の平面形について、「松江城測量図」(「日本城郭史資料 出雲・石見国」昭和初期)を見ると、北側の一辺は、馬溜の南側堀石垣の延長線ではあるが、直角ではなく東角がわずかに南へ下がっている。又、南側の一辺は、【絵図資料5】では長いが、幕末の絵図では大手柵門の石垣線より少し短いようである。
規模については、大半の絵図には長さなどの記載はないが、「松江城縄張図」と「御本二ノ御丸三の丸共三枚之内」により計測が可能である。縄張図では1間を約1.8mとして計算すると、東西が約20m余、南北は約32m以上となる。
なお、舟入は昭和初期以降に埋められたようで、現在の測量図面(2014年)ではよく分からないが、堀石垣が途中で角度が折れている所があるので、もしかしたらそこが、舟入の南西角だったかも知れない。堀石垣の積み方も南北で差異が認められる。何らかの機会に発掘調査で確かめるしかない。
おわりに―写真資料の評価
さて、この写真が大手前の舟入施設を撮影した唯一のものかと思っていたが、後日、松江市客員研究員の稲田信氏から、『松江市史』別編1「松江城」の古写真の中に舟入が写ったものがあるという指摘を受けた【写真2】。その写真には、大手前から内堀を隔てて南西方の三之丸の表御門やその周辺の多門、御広間などの主要な建物群が写っている。写真の手前に舟入の南西角の堀石垣と東側に走る南北の堀石垣の天端が写っている。これだけでは舟入の全貌は不明だが、部分的にはよく分かる。
その他、「松江亀田城山招魂祭之図」(『松江市史』別編1「松江城」第13章、写真13-7)にも舟入が描かれているが、馬溜の堀石垣と舟入の取付石垣の接点が異なって表現されている。
しかし、やはりカルシュ博士が撮影された今回の【写真1】が、今のところ松江城の舟入の全貌が分かる唯一の写真資料ということになるだろう。

【写真2】『松江市史』別編1「松江城」第13章写真資料:写真13-4
参考文献
- 若松秀俊著『(旧版)四つ手網の記憶 松江を愛したフリッツ・カルシュ』2007年7月発行、ワン・ライン
- 若松秀俊著『新版 四つ手網の記憶 日本の心を愛したカルシュ』2017年1月発行、杉並けやき出版
- 松江市史編集委員会編『松江市史』別編1「松江城」2018年3月発行、松江市
この記事に関するお問い合わせ先
文化スポーツ部 松江城・史料調査課
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更新日:2025年08月01日