調査コラム2
令和2年(2020)4月から史料調査課(令和4年4月から「松江城・史料調査課」)の職員が書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」も5年目を迎えました。令和6年4月から外部執筆者にも担当いただいています。今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。
過去の「調査コラム」「市史編纂コラム」は以下のリンク先をご覧ください。
第48回
ふたつあった千鳥橋
(元松江市文化財課長/岡崎雄二郎/2025年3月14日記)
はじめに
現在の松江で「千鳥橋」といえば、島根県庁舎北側から城山へ上がる手前にある木造橋を指す。江戸時代には、現在の県庁舎の場所に藩主の御殿がある松江城三之丸があり、その北側に二之丸と様々な藩有施設が隣接していた。三之丸を囲む堀には南・北・西の三方に屋根付きの「御廊下橋」が架かっていた【図1】。そのうち、三之丸から二之丸へ上がる北側の「御廊下橋」が現在の「千鳥橋」の場所にあたり、明治以降これがいつの頃か屋根のない普通の木造橋に改架され、おそらくその時に橋名も変更されたのではないかと考えられる。その後の変遷は行政文書が確認できず不明だが、近いところでは平成5年度に改架工事が行われ、平成6年(1994)3月に完成した(注1)。その後もさらに改架工事が行われ、現在の「千鳥橋」は令和4年(2022)3月に完成したものである【図2】。

【図1】「旧松江城図面(松江亀田千鳥城)」部分(画面右が北)、明治42年、松江歴史館蔵

【図2】城山の千鳥橋、2022年3月撮影
さて、問題はこの「千鳥橋」という橋名である。松江城に関連して地図などを調べていくと、かつて市内の別の場所、末次町地内にも同じ名前の「千鳥橋」があったことが分かった【図3】。これは一体どういうことなのかさらに調べてみた。そこで便宜的に、江戸時代には「御廊下橋」と呼ばれ現在は「千鳥橋」と呼んでいる橋を「城山の千鳥橋」とし、もう一つの同名の橋を「末次の千鳥橋」と区別して呼称し、関係史料の検討を進めていく。

【図3】「松江市全図」部分、昭和29年発行、松崎滋氏蔵
1.城山の「千鳥橋」
まずは城山について見ていく。17世紀初頭、堀尾氏によって亀田山(城山)が開削され、松江城の城郭施設が作られた。城山の最南部には「二之丸」が、その南側の平地には「三之丸」が縄張で配置された。二之丸と三之丸の間には内堀がめぐらされたので、間に橋を架け、さらに急斜面を上がるための石段を造る必要があった。
寛永5~10年(1628~1633)成立とされる「堀尾期松江城下町絵図」(島根大学附属図書館蔵)を見ると、既に
堀尾期松江城下町絵図(島根大学附属図書館貴重資料デジタルアーカイブ)
また、17世紀末頃に完成した「松江城縄張図」(松江歴史館蔵)においては、三之丸と二之丸を結ぶ橋は「御廊下橋」と記され【図4】、屋根付きの立派な、格式の高い橋であった(注2)。大きさについては、明和3年(1766)成立の「御城内惣間数」(雲州松平家文書、国文学研究資料館蔵)に「壱間壱尺ニ六間五尺」(幅約2.25×長さ約13.20メートル)とある(注3)。外観は前掲の「旧松江城図面」(図1)に描かれているとおり、江戸時代は一貫して屋根付きの橋として描写されている。

【図4】「松江城縄張図」部分、松江歴史館蔵
やがて明治維新を迎えると、当分は管理も行き届かなくなり、次第に腐朽していったものと推測される。重村俊介が大正時代初期に記した『旧藩事蹟』の調査下按ノ一(注4)によれば、「…旧御廊下橋トテ…」とか「…元御廊下橋アリテ…」「…従前此所は御廊下橋二テ、…」と表現されていることから、この頃には既に「御廊下橋」は解体されていたのではないかと推測される。おそらくは明治時代に屋根または全部が解体された可能性が高い。しかし、すぐに新しい橋が架けられたのかは不明である。城山一帯の土地は昭和2年(1927)に松江市に寄贈されるまで旧藩主松平家の私有地だったため、公文書に記録が残っていない。
そして、昭和4年(1929)12月に本多静六博士から松江市に提出された『松江市城山公園改造計画設計案』の挿図によれば、城山の橋は「千“歳”橋」と記されている【図5】。松江城・史料調査課によればこれは印刷段階の誤記とのこと。同案13頁「第4節 市長の希望及び意見」には、「13.千鳥橋入口の階段の改造を考慮せられたし」と書かれているので、昭和4年時点で既に「千鳥橋」と呼ばれていたことが分かる。
あくまでも推測だが、昭和初期までには江戸時代以来の「御廊下橋」がなくなり、通常の形の木造橋として改架され、橋名も松江城の別名にちなんで「千鳥橋」に変更されたのではないだろうか。

【図5】本多静六提出『松江市城山公園改造計画設計案』挿図部分、松江市蔵
2. 末次の「千鳥橋」
一方の末次の「千鳥橋」は、江戸時代には波止(はと=港湾施設)があったところで、その先端部は「ハトノハナ」と呼ばれていた。もとは斐伊川の宍道湖への流入によって大量の土砂が流れ着いてきた自然堆積地で、今研究者が言うところの「末次砂州」である。「ハトノハナ」付近には、宍道湖水を城下町の堀へ導入したり、逆に法吉、黒田地区の雨水などを宍道湖に排水する「水門」もあり、水位、水量を調整していたと思われる。しかし、絵図によっては波止が閉ざされていたり、水門が無かったりして一定していない。城下は度々洪水があったので、その都度様々な対策を立てたのであろう(注5)。この堆積地は近代に入ると、浸食を防ぐこともあってか、天倫寺の南岸から東方「ハトノハナ」まで直線的に護岸や舟入(船着場)が整備されたと考えられる【図6】(注6)。その後、平坦に整備され分譲されたようだ。「末次遊園(地)」「末次埋立地」と呼ばれていた。

【図6-1】「出雲国松江市街之図」部分、明治12年(『松江市誌』附図第5図)

【図6-2】同上、拡大
ここに明治20年(1887)秋、松崎作次郎が経営する酒楼「松崎水亭」が建てられた(創業は明治18年)。後述する松崎滋氏が所蔵する資料「謹告」(対仙閣主人、大正6年10月)によれば、当初僅か15坪2階建てだった同店は、明治32年(1899)に110余坪、明治42年(1909)には150坪に増築を重ねた。この頃、来遊した南画家の山岡米華が「対仙閣」と扁額を残し、これが後に松崎水亭の別称となったという。さらに大正5年には三期に渡る大改築工事を計画して460余坪を購入し、大正6年に庭園付の待合席を含む大楼閣が完成した(図案設計・川島松雲、棟梁・高橋茂一郎)。この改築第一期において従来の板橋を土橋に改めたとされる(注7)。
松崎水亭の繁盛ぶりは多くの文献に残されており、例えば『西田千太郎日記』によれば、明治23年3月15日を初出として同29年11月9日まで、会食で「松勢水亭」(勢は崎の誤記ヵ)、「松崎水亭」を計16回ほど利用しているのが確認できる(注8)。
松江市の公文書「橋梁取調書」(明治34年1月改)【図7】を見ると、年代の異なる橋梁取調表が4種類綴じ込まれている。ここにある「千鳥橋」の記述を整理すると、分類は「私設」(私費、私立)、場所は末次伊野屋灘と中原波止場の間、構造は板橋、架橋年月日は明治22年(1889)に新規架橋(長さ13間4分、幅1間5分。単位はママ)、明治33年(1900)12月に架替(長さ14間、幅1間5尺=長さ約27.30×幅約3.45メートル)とある(注9)。

【図7】「橋梁取調書」明治34年1月改、松江市役所

【図8】「松江市宅地等級概況図」部分、明治44年頃作成、松江歴史館蔵
「松江市宅地等級概況図」(明治44年頃作成、松江歴史館蔵)【図8】には、末次の波止の東端部に松崎水亭が○印で表記され、伊野屋灘の通りから松崎水亭への堀をまたぐ橋に「千鳥橋」と記されている(注10)。
そして、前掲『旧藩事蹟』の調査下按ノ十二にある「末次埋立地」の項を見ると、「…大正年の今日、既に水凌屋(みずしや)小路灘ヨリ態々同地への往来架橋も出来たと申、于時末次町の部ニ掲記置ク方カ、又ハ波止の方ヨリと云へハ、実松崎水亭ト末次町伊野屋灘トノ間ニ架橋し千鳥橋ト称セリ、是ハ全ク同亭へ客ヲ引ク為メの橋ト見レハ、波止ヨリ架セシトシテ序ニ爰ニ記置可申、…」とある。
以上から、末次の「千鳥橋」は「松崎水亭」を建てた2年後に酒亭への出入りの利便を図るために架けられた私設橋と考えられ、大正期には松崎水亭専用の橋としてその存在は広く知られるようになっていた。ここで何ら混乱が生じていないことを考えると、城山の橋はまだ「御廊下橋」と呼ばれていた、または腐朽後も架橋されていなかったのかもしれない。
その後、松崎水亭は昭和42年(1967)2月に至って休業した。松崎滋氏の話によれば、これは橋の東側に水門が設置されたことで堀の水が淀んでヘドロが発生して悪臭を放ち、客足が減ったためという。その後は、大正10年(1921)に玉造温泉街に開業した支店「松乃湯」に拠点を移し、現在に至っている。令和7年(2025)は創業140周年にあたる。
3.古写真に見る末次の「千鳥橋」
天神町の今岡ガクブチ店および「松の湯」代表取締役会長の松崎滋氏所蔵の古写真から、松崎水亭の「千鳥橋」が写っているものを紹介したい。

【古写真1】「湖畔松崎水亭の観月」西から見る(今岡ガクブチ店提供)
松崎水亭のある末次遊園地北西端部から千鳥橋方面を望む。伊野屋灘の様子がよく分かる。橋のさらに東側に末次神社の大灯籠が見え、遠くに嵩山、和久羅山が見える。橋の橋脚は4列で各列1本に見える。

【古写真2】「対仙閣松崎水亭」南東から見る(松崎滋氏提供)
2階建ての松崎水亭の本館と、その南に平屋で入母屋造りの独立した建物が見える。これが増築された「対仙閣」か。

【古写真3】「松江対仙閣(松崎水亭)全景」東から見る(松崎滋氏提供)
右側に千鳥橋、左側に松崎水亭と対仙閣が見える。橋は橋脚が4本見えるが何列か分からない。

【古写真4】「昭和10年代の松崎水亭」北から見る(松崎滋氏提供)
手前に木造の千鳥橋、後方に松崎水亭本館が見える。手前右側の親柱に「千鳥橋」と墨書された板が接着されているのが確認できる。勾欄には銅製と思われる擬宝珠が左右6個ずつ計12個取り付けられている(ただし、親柱に取り付けた擬宝珠とそれ以外の擬宝珠は、一部に形状が異なるところがある)。
橋の形状は、水亭側はハの字に開くが、末次の伊野屋灘側(北側)は開かない。勾欄の下部には、松崎水亭のマークとされていた松をモチーフにした装飾の彫物が左右12個ずつ計24個取り付けられている(ただし現在の「松の湯」のマークとはデザインが異なる)(注11)。橋脚は4列確認できるが、橋脚1列に何本立っていたかまでは分からない。
橋を渡った先には、2階建ての門構えが見える。1階は両側が漆喰壁、右壁には表札が架かっている(おそらくは「料亭 松崎水亭」か)。通路真上には瓦葺きの庇が取り付けられている。本館の大屋根には高い煙突が見える。この真下に厨房があったものと考えられる。門構えを過ぎると、入母屋造りで瓦葺きの瀟洒な建物と電柱が垣間見える。これが増築された「対仙閣」であろうか。

「千鳥橋」が架かっていた附近の現況写真(岡崎撮影)
左側(南)は松江市役所別館、右側(北)が伊野屋灘で、「千鳥橋」は写真中央あたりに堀川をまたぐように架かっていたと思われる。

伊野屋灘の通りの現況写真(岡崎撮影)
「千鳥橋」のあった場所の北側には、車の交差がならないほどの狭い通りが今も南北方向へ末次広場まで通じている。写真は北側から南正面奥の松江市役所別館を見たもの。
おわりに―残る課題
残念ながら、城山の「千鳥橋」がいつどのように名付けられたのか、明確に示す史料は今回見つからなかった。前述の通り、江戸時代の「御廊下橋」は明治時代に入ってから改架あるいは屋根部分だけを取り払った部分解体工事が行われたと推測される。しかし、城山一帯の土地は旧藩主松平家の私有地だったため、公文書にその記録は残っていない。大正時代の「松江市全図」には「千鳥城」「千鳥遊園」が描かれており、橋名もこれらにあわせて「千鳥橋」と名付けられた可能性がある。
一方の末次の「千鳥橋」は、明治22年(1889)に松崎水亭の私設橋として設置されていた。同時期に同じ名称でふたつの「千鳥橋」が存在するのは管理上難しいはずだが、なぜそれが可能になったのか、なお行政文書など関係史料や「松江市街図」のような地図類をさらに点検していく必要がある。
なお、松崎水亭では明治20年(1887)の開業から明治22年の「千鳥橋」架橋まで、お客はどうやって水亭に到達したのだろう。渡し舟で横断したのか、はたまた、ぐるっと末次の土橋(荒隈橋)を渡り西から大回りして行ったのか、気になるところである。また、昭和43年(1868)の松崎水亭休業後、末次の「千鳥橋」がいつまで存在していたかは確認できていない。
(松江城・史料調査課/村角紀子補記)
謝辞
令和6年(2024)6月13日、玉湯町の松乃湯で、岡崎と松江城・史料調査課史料調査係長の小山祥子、同係員の村角紀子が代表取締役会長の松崎滋氏にお会いし、直接本件にまつわるお話を聞き、多くの関係史料を提示していただいた。記して感謝する次第である。
また、『旧藩事蹟』と『松江市城山公園改造計画設計案』は、松江城・同課職員のご教示による。
注
(注1)岡崎雄二郎「史跡松江城の発掘調査(2)―北惣門橋跡、御廊下橋跡―」『松江市歴史叢書』9号(松江市史研究7号)、松江市、2016年3月刊
(注2)屋根付きの御廊下橋は、和歌山城、福井城などで復元されているが、全国的には数少ないものである。城郭以外では、「大崎御屋敷分間惣御絵図面」(天保9年〔1838〕、松江歴史館蔵)によれば、松江藩大崎江戸屋敷の庭園の中の11の茶室の一つ「松瞑」に通ずる谷に「沖天橋」が架けられている。
(注3)1間を6尺5寸で換算した。
(注4)『旧藩事蹟』は、松江藩軍用方書記を務めていた重村俊介が、松江城や城下町について、旧藩時代から大正時代初期にかけての変遷を詳細に記述した大変貴重な文献資料である。
(注5)例えば、『松江市史』 史料編11「絵図・地図」の図25「松江城及城下古図」では、波止の宍道湖側が石垣や植林で完全に閉ざされている。
(注6)『松江市誌』(昭和16年刊)の附図第5図「明治十二年出版出雲国松江市街之図」による。
(注7)対仙閣主人「謹告」(大正6年10月、松崎滋氏蔵)による。
(注8)『西田千太郎日記』全1巻 島根郷土資料刊行会、1976年6月刊
(注9)「橋梁取調書」明治34年1月改、松江市役所
(注10)『松江市史』史料編11「絵図・地図」図61「松江市宅地等級概況図」による。
(注11)松江歴史館所蔵の古写真によれば、白潟の売布神社南から堀を隔てて伊勢宮方面へ東西に架かる橋「松花橋(まつはなばし)」にも勾欄に同様の松葉の形の装飾があったのが分かる。
この記事に関するお問い合わせ先
文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
ファックス:0852-55-5495
お問い合わせフォーム
更新日:2025年03月14日