調査コラム2
令和2年(2020)4月より書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」、今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。
過去の「調査コラム」「市史編纂コラム」は以下のリンク先をご覧ください。
第60回「内田文恵オーラル・ヒストリー(2) 島根県立図書館時代の郷土資料へのとりくみを中心に(後編)」
談:元松江市史料編纂課主任編纂官・内田文恵
インタビュー、文責:史料・埋蔵文化財課文書館準備係
2026年9月30日公開、10月9日一部修正
はじめに
今回は、当課OBであり島根県立図書館で長らく郷土資料を担当された内田文恵さんに、これまでの足跡を伺う「オーラル・ヒストリー(口述記録)」の第2回です。第1回については本コラムのバックナンバー第57回をご覧下さい。
ここでは「島根県立図書館時代の郷土資料へのとりくみを中心に」後編として、県立図書館における「島根郷土資料刊行会」の活動、『松江藩列士録』の翻刻、山陰歴史研究会『山陰史談』、国文学研究資料館との合同調査の経緯などについて伺ってみたいと思います。
【写真1】インタビュー当日の内田文恵さん、2026年2月7日
1.速水保孝館長と「島根郷土資料刊行会」
―まずは、島根県立図書館(以下、県図)での「島根郷土資料刊行会」(以下、刊行会)の活動背景からお聞かせ下さい。刊行図書一覧を【資料1】にまとめております。
|
●郷土資料シリーズ |
|
|
●島根郷土資料オリジナルシリーズ |
|
|
西田千太郎著、池橋達雄解読『西田千太郎日記』昭和51年6月 |
―刊行会の活動は、昭和46年(1971)から51年(1976)にかけての6年間だけなのですが、この間に、『出雲藩山論史料集』全5集【写真2】といった定評のある史料集のほか、『松江:その歴史と伝統』のようにベストセラーになった読物、そして『西田千太郎日記』【写真3】のように今日まで参照され続けている貴重な一次史料の翻刻など、松江の郷土史研究に欠くことのできない本を次々に出版されています。これはちょうど、速水保孝(はやみ・やすたか)館長の時代とぴったり重なるようですが…?
そうね。速水館長時代にすべて完結したわけではないことは、それぞれの発行年を見てもらえば分かるけど、あらかたはそうですね。
発端は大体、前回話したように、『新修島根県史』の編纂・執筆に関わられた先生方の思いが県図の郷土資料につながって、昭和43年(1968)4月に田村清三郎さんが新築の県図次長として来られて、新館書庫に県庁の引継ぎ文書を移して、中野さんという司書さんと一緒に郷土資料の充実を図ろうとしておられたんだけど、その矢先、同じ年の10月に田村さんが事故死されたの。そこまでが新館・県図郷土資料の歩みの第一歩かな。
―内田さんはその後、昭和45年に臨時職員で採用されて、嘱託の櫻木保先生と一緒に県庁引継ぎ文書の移管にあたるんでしたね。当時の館長さんはどなただったんですか?
私が入った時は、楫野健治(かじの・けんじ)さんでした。その後、昭和46年(1971)の4月に速水館長という型破りな実力者が館長になられたの。このことは県図にとって幸いなことだったと私は思ってるの。田村さんが居られなくなり、中野さんもほどなく病気でお辞めになってましたからね。速水さんが館長で来られなかったら、その後の郷土資料の活動は出来なかったと思ってる。ここからが県図郷土資料の第二歩目で、その後の基礎が築かれたように思ってます。
―速水さんが館長に就任された時、館内はどういう感じだったんですか?
速水館長が就任されて、事務職の方はかなりやりにくいと思っておられたかな。だって、館長は大きな威勢のいい声を出される方だったからね。質問にはすぐ回答や返事がないと「何をぐずぐずしているんだ」って叱られるわけ。せっかちなところはあったと思うけど、「そんなことも把握してしないのか!」って感じの叱り方だった。
司書の私たちも最初はビビリましたよ。購入図書を選ぶ「選定会議」というのが毎月、館長出席であるんだけど、分類ごとに司書が担当して選んだ理由を端的に説明しなくてはならないの。速水館長はめったに発言はされないけど、何しろ東京帝国大学史学部の出身で、戦後は東大大学院で経済学を専攻されてたでしょ。当時はそこまで知らなかったんだけど、吉田茂内閣の秘書官を務めて、県庁では厚生部長をされてた。私はちょうど、速水さんが部長時代に公用車に乗られる場面に出くわしたことがあってね、びっくりした。その場に居合わせた大勢の職員が、速水さんが車に乗りこまれるまで直立不動だもの。「あれは誰ですか」って聞いたら「凄い人よ、将来の副知事かな」って聞かされてたの。
県図退職後は郷土研究家として名を馳せられて、検索すれば今でも郷土史家、古代史研究家って肩書で出るのよ。かの松本清張と出雲の古代史がらみで大論争をされるし、反論で出版されたのが『原出雲王国は存在した』(山陰中央新報社、昭和60年)って本。それから、『つきもの持ち迷信の歴史的考察』(柏林書房、昭和28年初版)は自分の家系を探ることで出版された名著だしね。そんな館長だから的確な質問をされて、歴史と郷土資料担当だった私は、毎回ドキドキものだったのよ。準備でね。おかげで鍛えられたかな。
でも一度、司書2名と館長とで大激論があったの。館長は「本を購入するのはいい、だがこんな本は最初から書庫に入れろ」と言われる。司書2人は「恣意的にそんなことをしてはいけない、開架にすべき」と主張して。当時の女性司書はなかなかつわものぞろいだったのよ。
―結局、その本はどうしたんですか?
開架に出しましたよ、当然ね。怖いこともあったけど、面と向かって正論を言うと、「そうか」の返事は来る。けっこう怒鳴られもしたんだけどね。
ともかく、速水館長が就任されて、県図の郷土資料は一変したの。外に向かってすさまじい勢いで発信された。県図は島根県の郷土資料について発信する、という方向に向かうことになったの。それは、島根県に関する資料はくまなく収集すること、そして、蔵書の資料やこれまで利用できなかった資料の整理、公開、文献の活字化、発行。そしてマスコミとの交友によって、県図の存在と、利用価値を県民にアピールすることなどを考え、進められたと思うの。
―刊行会に新聞社との共著が多いのは、そういう方針があったからなんですね。お堅い史料の翻刻や復刻だけじゃなく、新聞連載を上手にまとめたり、売れる本を作るのが上手だなぁ、という印象を受けました。速水館長の推進力は本当にすごかったんですね。
そうなの。もう手に入らないと思われていた『出雲私史』とか『松江八百八町町内物語』『雲陽軍実記』などの復刻版や、『松江』『しまね史記』とかね。本屋の店頭に置かなくても、口込みで売れてましたね。速水館長の後は、少々萎縮しなくちゃならない時代もあったんだけど、総じて郷土資料の活動は、県図の方針として代々の館長にも容認され続けたと思いますね。
【写真2】『出雲藩山論史料集』全5集
【写真3】『西田千太郎日記』
藤岡大拙先生と「古文書を読む会」
それに、速水館長の招聘で昭和47年(1972)に松江南高校から藤岡大拙先生が来られたのも大きなことだったと思うの。藤岡先生と藤澤先生が、楫野館長の時代に「古文書を読む会」を県図で開催させてほしいと頼みに来られたのが昭和44年(1969)だったらしいの。1月から3カ月間の試し講座を開いたところ大盛況で。それで4月から正式に県図の講座になって、毎月、中世文書は藤岡先生、近世文書は藤澤先生がテキストを選ばれて、それを印刷して参加者に渡して、古文書講座が開かれるようになったの。集会室は毎回すし詰め状態で、終わると拍手が起こるのよね。2年後の昭和46年4月から櫻木先生も入門講座を担当されたし、古文書講座は月3回の開催だったのよ。藤岡先生は、初回の昭和44年1月から令和6年(2024)3月の最終回まで、55年間途切れることなく講師を続けられたの。一人の人の講座としてはギネス記録に入るんじゃないかな(笑)
そんな人気講座をしておられた藤岡先生が県図に入られたことで、先生を訪ねて来館される人が凄く多くなったの。一般の郷土史研究の人はもちろんだし、古文書を読んでほしいとか頼みに来られる方とかね。印象的だったのは、地元紙の山陰中央新報社だけでなく、マスコミ大手の松江支局の記者さんたちの来館が増えたことだった。先生と話をするだけの記者さんも多かったけど、郷土資料とか一般資料でも質問が多くなって。すぐ聞きに来られるし、電話で回答することも多くなるし、レファレンス対応が忙しくなってきたのよね。
その頃はまだ図書館って、一般の人には認知度が低かったからね。学生が勉強する場所、本を貸してくれる施設っていう程度じゃなかったのかな。それが、図書館は相談できるところでもあるってことが、利用者さんにもだんだん認知され始めたのね。
2.『松江藩列士録』の翻刻
―では次に、現在多くの史学関係者がお世話になっている基礎資料、『松江藩列士録』活字本(全6巻、島根県立図書館郷土資料、平成16~18年刊)の成立背景について教えて下さい。
「列士録」は、知ってのとおり上級家臣、家老以下の上士の家の履歴書なの。もともと「列士録」だけが原本の表題だけど、次第に松江藩をつけて呼ぶようになったから、書名に「松江藩」がついたわけ。「列士録」は
- 松江藩屋敷本(52冊)、島根県立図書館蔵(県庁引継ぎ文書)
- 松江神社本(57冊)、島根県立図書館蔵(『松江藩列士録』活字本の底本)
- 松江藩江戸屋敷本(55冊)、国文学研究資料館蔵(松平家旧蔵)
の3種類が残っています。
松江藩の文書記録は、慶應4年(1968)の2月に西園寺公望の山陰道鎮撫使一行が松江に入る前に、連日、松江城から煙が上って書類が焼かれたっていう伝承があるのよ。そのせいで藩政文書はおそらくなくなったけど、それでも「列士録」は残ってたのよ。それが県庁引継ぎ文書の中に入ってて、県図に移管された分らしいの。でも、これはひどく状態が悪くなっててね。全体に虫損が激しいうえに、湿気の中にあったせいか、板状になって開くことが出来ない簿冊もあったりして、閲覧できる状態ではなかった。それと別に綺麗な「列士録」が県図に伝えられてて、これは松江神社から来たものだったの。あと、江戸屋敷にあったと思われる「列士録」が東京の国文学研究資料館にあります。
―なるほど、それで松江神社本を底本にしたんですね。スタートはいつ頃だったんでしょう?
昭和48年(1973)に県の引継ぎ文書が終わったので、速水館長が、「次は『列士録』を翻刻する」って言われてね。「列士録」は、古文書の字体を知ってる人は読めて、意味も分かるだろうけど、これからの時代はくずし字を読める人もだんだんいなくなる、だから「利用できんようでは宝の持ち腐れだ」って。
―これまた速水館長案件だったんですね。
そうそう。しかも、候文の「被成下度候(なしくだされたくそうろう)」とか「御意承存候(ぎょいうけたまわりぞんじそうろう)」なんて、どっちみち本文の意味にはあんまり関係ないけど、初めて見る人には難解でしょ。だから、先祖調べの人や、「列士録」を使って研究しようとされる人には、もうかなり、納得されるまで付き合って説明することが多くあったのよね。声を出して読んであげて、返り点、レ点の決まった読み方、大まかな意味も説明してね。
それで引き続いて櫻木先生が嘱託として解読をされることになったの。櫻木先生が残られて、私たちすごく助かったのよ。それから、高校を退職されてしばらくたっていたけど、郷土史家でもあった美多実先生が嘱託で入られて、臨時職員だった岡本久美子さんも加わって、3名で「列士録」読解が開始されたの。でも、速水館長は昭和52年(1977)に急に職を辞されてね。
―櫻木先生たちの解読成果はどうなったんですか?
天綴タイプの400字詰め原稿用紙に手書きの解読原稿、県図で見たことない? 400字詰め原稿用紙50枚綴りで、何冊になったのかな。何十冊にもなってたと思う。それで、その解読原稿の簿冊を、そのまま閲覧利用に出しはじめたの。原本は閲覧禁止にしてね。ところがね、その原稿用紙に書かれてる字が読めないっていう人がおられるの。なぜなら、櫻木、美多両先生の字がかなり個性的でくせのある字でね、容易に読めないわけ。
―それをまた解読しないといけないと…(笑)
それに、原稿用紙の「列士録」は外れやすいのよね。綴じ直しすればいいんだけど、そんな時間もなかなかないし、外れて順番が違ったりしたら大変だから、古文書の扱い方を知ってる人には原本を出してあげてた。
まぁ、そんな感じで、「列士録」の解読は昭和の終焉と共に終了してました。途中で美多先生がいつだったか、ちょっと忘れたけど退職されるし、岡本さんもしばらくして退職したんだけど、櫻木先生が最後まで解読を完成されてから嘱託を退職されたの。でも、前にも話したように、平成12年(2000)に千葉へ帰られるまでは県図の閲覧室の定位置に通勤しておられたのよ。
―なるほど、解読原稿は完成していたけれど、色々な面から利用しづらい。そこで活字化を進めるわけですね。本の刊行まで随分間が空きますが…?
その頃から、私はどうしても「列士録」は本にしたいと思っていたので、予算がつかないか探ってはいたけど、うまくいかない。原稿を活字化することだけでも出来たら、それを閲覧用にしても良いかなと思ってて、自分でやろうとも考えたけど、仕事の合間や自分の時間でやるしかないんだから、自分が2人欲しいと思ったりしてたのよ。今でいうクローン人間がね(笑)。それに、その頃は一人一台のパソコンなんてないからムリムリ。
そんな時に、知人がパソコン入力を趣味にしてる人を知ってるから、いつまでかかってもよかったら頼んであげると提案されてね、渡りに船と頼んだわけですよ。何年かかったかな。記録してなくてそこの所は不明だけど、でも、その協力のおかげで入力は完成したんですよ。でも、それを印刷・校正・製本まで持って行かなくてはならないのよね。
それでも、私も奉仕係長や郷土資料係長になったりしてたので、多少のプッシュはできたの。平成7年(1995)には女性初の館長・生田昌子さんが就任されて、古文書や新聞のマイクロ化、古文書等の史料収集費用300万円が継続予算化されたり、古文書翻刻要員の臨時職員が2名採用されたりしたのよ。この頃からが県図郷土資料の第3歩目かな。その後も、赤江勝洋館長時代の平成12年(2000)には県図の郷土資料の絵図をデジタル化してインターネット公開するための国庫予算2000万円事業が通過してね。
その時期は、私や北村さんが古文書翻刻要員の2人と一緒に古文書整理に出かけたり、寄贈された文書群をワープロやパソコンで目録化していたものを次々出版していくことが出来たのよ。『隠岐斎藤家古文書目録』(平成14年)、『池尻家文書目録』『比布智神社文書目録』(平成15年)、それに、櫻木先生が悲願にしておられてもう原稿は出来上がっていた『島根県立図書館漢籍分類目録』(平成12年)などを刊行することができたのよね。
その傍らで、あとでまた話すけど、国立史料館(平成16年より国文学研究資料館)の安藤正人先生はじめ、史料保存の専門の青木(当時は広瀬)睦先生と史料館所属の諸先生たちが順番に毎年10月に来松されて、「郡奉行所文書(こおりぶぎょうしょもんじょ)」の整理・目録作成をしてたんですよ。この作業には、図書館職員も出られる人は参加してもらって、その他にも、古文書解読が堪能な人と、島大の学生さんも毎回2、3人はバイトで来てもらって、安藤先生指導のもとで目録作成をして、青木先生には文書の保存方法を細かく教えてもらったの。そうして、平成13年(2001)に、『松江藩郡奉行所文書調査目録』上巻・下巻として完成したの。
それでようやく、次は「列士録」の刊行だ、と平成16~18(2004~2006)年度完成予定で、前年度の平成15年(2003)度に予算計画を立てたのよ。
でも、この「列士録」が明確に県図の所蔵になってなくて、松江神社の預かり史料のままになってたので、松江神社の宮司さんに相談して。刊行は了解されたけど、「自分だけでは許可出来ないから、氏子代表会議にかけて了承されないと正式にならない」と話されてね。氏子代表会の会長さんは原守中弁護士さんで、直に何回かお会いして説明して。
さらに、氏子代表の中に堀尾吉晴家の系統を引いてて、堀尾家断絶後に松江藩に仕官した家の方が現存されてたの。あの「堀尾古記」を所蔵しておられる家の人よ。その堀尾さんもよく県図に来館されて、自宅の史料はあんまりないけど、なんて雑談したり、私もお宅に伺ったりしてたのよ。それから、吉野蕃人先生、この島根大学の教授だった先生は植物学者で、桜やチューリップの研究で著名な先生。『さくら歳時記』や、初年兵でシベリアへ抑留されてた体験時の記録を書かれた『シベリア抑留記』などの著作がある方だった。この先生は雑賀町に住んでおられて、代々御徒(おかち)で、御先祖は郡奉行の配下で、地方農地田畑の測量や管理などをする地方巧者の職についておられたので、先祖が残した図面や測量機材、絵図や記録などを所蔵されていたの。私もよく先生のお宅へ伺って調査をしたし、先生も県図へは頻繁に来館されていたの。この吉野先生も松江神社の氏子代表になっておられたので、おふたりにはこの計画の応援者になってもらったのよ。氏子代表の人には「列士録」が何なのか分からない方も多かったみたいでね。
そんなこんなで、「列士録」発行の予算は無事通過してました。ところが、平成17年(2005)に私が松江工業高校への転勤が決まってね、ビックリ。定年まであと4年だからと、自分の中ではいい計画だったんだけど、さにあらずでした。それで、この刊行については、私の後任になった北村さんと古文書解読要員だった飯田奈美子さん、野津(現・赤木)薫さんたちには本当に頑張ってもらって、発行まで面倒かけたと謝りたいです。でも、しっかりよく校正して完成させてもらったと感謝ですよ。1巻は先に私が校正したりしてはいたけど、すべて後任のおかげでした。
―だから『松江藩列士録』の発行は何年にも渡ってるんですね。何部くらい刷ったんですか?
100部くらいだったかな?
―そんなに少なかったんですか!
もっと出したいとは思ったけど、『列士録』って自分の先祖のこととか、個人のプライバシーが記録されてるでしょ。松江神社の氏子会でも原弁護士さんはこの点を心配しておられたの。それを歴史資料だからと理解してもらい、堀尾さん、吉野先生も強力援護して下さったわけ。予算査定の時にも、このことが問題になってね。自分に関係ない家を見るのはプライバシーの侵害になる恐れがあるのではないか、など色々なことを教育委員会総務課や財政課からは指摘されたけど、まあ、説明するしかないし、弁護士の氏子会長さんも了承しておられるし、何より歴史資料であること、今も活字化を待ってる人は多いし、今後役にたって行く史料なんだから、と説得してね。
―実際、今ものすごく役に立っていますよ。失われた松江の藩政文書を補う、本当に重要な基礎資料です。
でももう一つ、今度は県図側に懸案事項があったのよ。販売したら収入は県収入へ計上しなくてはならない。購入申し込み後は、発送から入金手続き、更に県へのお金の編入手続きなど、事務量が多くなる。それは避けたい。それに、個人で全巻欲しいという方は少ないだろうから、販売はしないで、必要な方のみ関係部分を複写してもらえばいいか、などの結論になってね。あくまでも学術的史料として活用してもらう刊行物になったの。全国の都道府県立図書館、国立国会図書館、国文学資料館など公的機関や、大学でも史学部、史学科のある大学のみに寄贈するということになって、100部になったのよ。その時、予備は多少取っておくことにしても寄贈先の100件弱の配布先名簿を作成しなくてならなくてね、全リスト作るのは大変だったような記憶がある。だから、知る人ぞ知る資料になってしまってね。
【写真4】『松江藩列士録』全6冊
それから、県図には「列士録」の他にも、上士の下の地位の「新番組列士録」(3冊)もあったのよ。それと「新番組抜取帳」(2冊)、「断絶帳」(3冊)。両方とも閲覧に出せる状態ではなかったから、当時はレファレンスの中で私たちが少しづつ開けて調べるくらいしかできなかったの。
この「新番組列士録」も、国文学研究資料館本(4冊)を底本にして、平成28年(2016)に無事、『松江市歴史史料集3―新番組列士録』として、北村さん、飯田さんによって松江市から発行されたのよね。「列士録」も、県図所蔵分は汚破損、虫損本だから、せめて国文学研究資料館のと照合してから活字にしたいねと言ってたけど、そんな経費も手間もない状況だったのよ。これから誰か比較検討に挑戦してくれる人、いないかな(笑)。
あと、新番組士の下の下士(御徒・足軽)の家の分はなかったから、先祖調べに来られても大体失望して帰られる人が多かった。県外からの問い合わせも多くて、わざわざ来館される人もおられたわね。菩提寺を紹介しても、最近は菩提寺でも住職さんが過去の檀家のことを引き継いでおられないようで、ご存じないお寺が増えててね。
でも、その後の文書調査で、下士の家も履歴書を作製して藩庁へは提出してたのではないかと推測できることが分ってきたの。下士のお宅の文書調査をすると、列士録と同じ形式で「先祖由緒書」「家譜」等の名称で先祖の履歴をまとめておられるのよ。これも、藩庁へ提出されてまとめて管理されてたでしょうけど、廃藩置県のどさくさで無くなったんでしょうかね。
3.山陰歴史研究会『山陰史談』
―次は郷土研究誌の『山陰史談』について聞かせて下さい。奥付を見ると、発行元は「山陰歴史研究会(島根県立図書館内)」となってますね。
これは県図とは全く関係ない会ですよ。事務局も、楫野館長時代に「ここ(図書館)に置けば」って言われたからそうなっただけのようで。前身として、島大教授の内藤正中先生が昭和30年代に県下の郷土史家の先生の発表の場として出されてた『郷土』っていう雑誌があって、それが廃刊になってね。はっきり「廃刊」とはしなかったようだけど、尻つぼみで無くなったようなの。事務的なことを内藤先生がすべて自分でしておられたけど、ご自分の執筆活動が忙しくなって、出版できなくなって終わったらしいの。この頃のことは私知らなくて、『山陰史談』の事務も、昭和47年(1972)の4号から担当することになったの。
―それはどういう経緯だったんでしょうか?
それまで『山陰史談』の事務をすべてしておられたのが、県図の先輩だった深田百合子さんという司書の人。その人が県図を退職して広島へ移住される祭に、県図へ入って間もない郷土担当だった私に「後を頼むね」って言われたの。私も詳しいことなど分からずに、引き受けるものなんだと思ったし、『郷土』や『山陰史談』の論文は読んでたから、面白いかなと思って「はい」って引き受けてしまったのよね。それから平成15年(2003)の31号まで、長い付き合いになってしまった。
そもそも『山陰史談』の始まりは、第1号(昭和36年6月発行)に書かれてるけど、『郷土』がなくなってから史学論文を発表する機会がないなってことで、藤岡先生と藤澤先生が『山陰史談』を立ち上げられたの。島根・鳥取の郷土史家、研究者の人の発表の場にしたいということでね。
『山陰史談』の冊子は、会員として登録はしてもらうけど、会費制ではなくて、冊子が出来た時に登録しておられる会員や法人(大学図書館や地域図書館など)へ送ると、発行時の1冊分の代金と送料を振り込み用紙で後払いしてもらう、1冊買いの方式なのよ。会員数は多い時には150~160人いたかな。発行当初は島根県の郷土資料や研究が耳目を集めていた頃らしいし、『新修島根県史』も終わって、みんな歴史の話に飢えてる時代だったようで、300部刷ったけど足らないこともあったわね。
発行は1年1冊のはずだったんだけど、藤岡先生も昭和60年(1985)に島根女子短大へ転勤されたこともあって、県図とは離さなくてはならなくなって、1号から印刷をしてもらっていて、藤岡、藤澤先生とも親交があった報光社の新宮健一さんという方に頼んで、事務局名は報光社付にしてもらったの。大体1年に1冊刊行は出来てたけど、平成の中頃になると、投稿希望をされる先生方も少なくなったし、私も多忙になってしまって、平成15年(2003)の31号で終了の形になってしまったの。
―『山陰史談』は投稿制だったんですか?
そう、掲載希望の方は多くおられたのよ、発行当時はね。次回まで待ってもらう原稿もあったりしたのよ。ざっと私が投稿原稿を読んで、疑問な点は修正してもらったりしてたけど、投稿者は自分の原稿に自信をもって出してこられるので、私があれこれすることはしないようにしたの。せいぜい校正ぐらい。でも、校正も自分できっちりされる方ばかりだったのよね。藤岡先生はすでに大忙しの頃だったから、私が「次の号はこの論文とこんな構成で、広告や多少の宣伝文、残部紹介などもこんな風に」って先生に見てもらうけども、「それでいい、任せるから」って言われるようになってね。
投稿者も、昭和から平成初期の頃は、高校の先生や、コツコツ研究しておられる郷土史家の方が確かに今より多かったような気がする。そして発表の場を待っておられたように思えるんだけど、最近はどうなのかしらね。高校の先生も、とても研究なんて時間はないだろうし、郷土史家と言う人も少なくなったんじゃないかな。
【写真5】『山陰史談』
4.国文学研究資料館との合同調査
―では、続きまして国文学研究資料館との合同調査の経緯について聞かせて下さい。平成期に入ると、県図では「松江藩奉行所文書(松江藩御徒関係記録文書)調査」や「三谷家文書調査」など、その後の松江市史編纂事業や松江市文書館開設にまでつながっていくような重要な合同調査がいくつも行われていますが、内田さんはその全てに中心的に関わっておられます。国文学研究資料館とのつながりはどのように生まれたのでしょうか?
郡奉行所文書は、もともと昭和47年(1972)まで島根県警察本部の蔵に秘蔵(?)されてて、その蔵が取り壊されることになったので、一番奥に置いてあった大きな櫃(ひつ)に入っていた「御徒文書(おかちもんじょ)」が取り出されることになったの。後で安藤先生が「郡奉行所文書」と「御徒史料」とに分けられたけど、それまでは「松江藩御徒関係記録」という名称で、目録も出来てたのよね。おそらく『新修島根県史』編纂中か、その後に目録が出来てたんじゃないかな。
それにしても、編纂終了から10年もたたないのに、蔵の中は事務書類や使われなくなった事務用品がところ狭しと山積み。それら雑多物を職員の人と外へ取り出して、大きな櫃へたどり着いたわけ。傷んではいたけど、前面には三つ葉葵の紋が朱色で書いてあって、堂々とした感じでね。それ見た時に「時代劇に出てくるのと一緒だ」なんて、私も20代だったから感動したの。それが最奥に置いてあった。その櫃の上にも書類が置いてあったりしてね。でも、無事でよかったですよ。
昭和48年(1973)に県に正式に移管されて、速水館長の指示で、櫻木先生と私が大仕分けをしたの。櫻木先生はその中から山論に関係する古文書を取り出して解読し、『出雲藩山論史料集』をまとめられたの。でも、先生が取り出された山論関係以外の文書群と沢山の簿冊はそのままになってて、ずっと気になってはいたのよ。「このままじゃ、また宝の持ち腐れになるな」ってね。簿冊のいわゆる「御徒記録」は櫻木先生が簿冊の題名ごとに年代別にして、年表を作製されたの。今その年表は県図の郷土レファレンスの事務用棚にあるはずなんだけどね。多分1部しかなかったので、今見ることが出来ないのは残念。
簿冊は、当番ごとの日誌形式で記載されてるけど、所管役所ごとに簿冊が別々に作成されてたようなのよ。題名が違っているから。これは上士の藩政に関わる「御用人記録」などではない下級武士の勤務上の日誌記録だと思うのよ。下士の隠居願いとか、異変や事故や指令のこととか、当番のことなど、変化はないけど時々興味を引く記事があったことは覚えてる。全部読んだら何か出て来るかもね。関連だと思われる県庁引継ぎ文書にあった「藩政日記」に、「之より明治」なんて記載がサラっと書かれてるのを見て驚いたことがあったのよね。
それで、手つかずの束になってる文書群を「どうしたらいいのかな」って思ってたの。前回も話したけど、私は全史料協(全国歴史資料保存利用機関連絡協議会)の全国大会にずっと参加してたから、そこで開催される夜の懇親会にも出て、文書整理を相談できる先生はいないかなって思ってたの。それまでも、調査に行った家では自前で考えた方法で文書整理と目録採りをしてたんだけど、あの文書群は全く紙縒がほどかれたことがないことは分かってたので、ほどいてバラバラにしてはダメだなってことは認識してたの。何とか良い方は…って考えてた頃、平成元年(1989)の全資料協の懇親会で、安藤正人先生と隣り合わせになったのね。そこで何気に、「こういう文書があるんですけど、どうしたらいいですかね?」って話したら、何と興味を示されて、「来年鳥取に行くから、その時に松江にも寄って見てみましょう」って言われて、すごく嬉しかった。「やっと見つかった!」って。でも、それほどの文書でもなかったらどうしよう、とは思ったのよ。文書整理専門の先生にわざわざ来てもらって期待外れの結果となっては申し訳ないなってね。
―そうすると、最初は完全に、内田さん個人のつながりから始まったんですね。
そうなるのかな。それで史料保存専門の広瀬(後に青木)睦先生も、一緒に来て下さることになって、それ以来ずっと、広瀬先生は安藤先生と一緒に来てくださったのよ。毎年10月に県図での3日間の文書整理が終わった後には、館長とか次長とも交えて史料館の先生方と慰労会をしてたんだけど、広瀬先生ははすごくお酒に強くて陽気だったから、県図の当時の次長の森山重信さんが広瀬先生を「面白い人だ、いい人だって」ってすごく気に入ってね、「来年も来られるか」なんて楽しみにされた年もあったりして、楽しく面白い調査だったのよ。安藤先生も青木先生も年に一回は県図に来て下さるようになったし、目録の取り方は安藤先生、文書の保存処理は広瀬先生が指導してくださるようになって、それ以来何かあると相談に乗ってもらったんですよ。
【写真5】郡奉行所文書整理の様子、手前は記録写真を撮影する安藤正人先生
―三谷家文書の調査も、その流れですか?
そうそう、やっぱりこっちに来られて話をしている中で、松江歴史館の収蔵庫とか、三谷家の蔵の状況も見て下さってね。後には飯南町の方の調査にも入られるようになってたのよね。
―なるほど、そうして松江と国文学研究資料館の先生方とのつながりが生まれて、平成22年以降の松江市文書調査にもつながっていったんですね。貴重なお話をありがとうございました。
それではいよいよ、次回は松江市史編纂事業のお話を聞かせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
この記事に関するお問い合わせ先
文化スポーツ部 史料・埋蔵文化財課
電話:0852-55-5284(調査企画係)、0852-55-5293(発掘調査係)、0852-55-5388(文書館準備係)
ファックス:0852-55-5571(調査企画係・発掘調査係)、0852-55-5495(文書館準備係)
お問い合わせフォーム






更新日:2025年08月08日