調査コラム2
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第56回「赤穴瀬戸山城と城下町を考える―堀尾氏の支城期を中心に―」
西尾克己(元松江城部会長/2026年5月20日)
1.はじめに
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで東軍の徳川家康に組みした堀尾吉晴と忠氏の親子は、出雲国と隠岐国の両国24万石を領有することになり、当初は富田城(安来市広瀬町)を本城とした。その後、慶長13年(1608)以降には居城を宍道湖畔の末次に移したので、これにより松江城が本城となり、これ以降、富田城は出雲東部の支配拠点と伯耆国等から侵略に備えた支城になった。
堀尾氏は領国支配と防備のため出雲国内に4ヶ所に支城を配置した。この支城は「一国一城令遵守の見届け、古城の見分」のために寛永10年(1633年)に作成された寛永10年出雲国絵図に4ケ所に古城の記載が残る。
堀尾氏の支城は、富田城と出雲西部の三刀屋城(雲南市三刀屋町)、さらに備後と石見の国境に近い赤穴瀬戸山城(飯石郡飯南町下赤名)、及び備後国と伯耆国に近い亀嵩城(仁多郡奧出雲町)である【図1】。各城には堀尾氏の一族や重臣を支城主や番衆として置き、伯耆国や備後国等周辺からの防御と奥出雲の支配の拠点とした。また、富田城には吉晴の娘婿である堀尾河内を、三刀屋城には弟の堀尾宗光を、赤穴瀬戸山城には重臣の松田左近吉久(息子は吉晴の娘を娶り、堀尾因幡を名乗る)が据え置かれた。
各支城には、支城の主と共に藩士(馬廻の一部)や支城を預かる直接の家臣である与力等が派遣され、彼らの住む屋敷も城下町の一角に設けられたと考えられる。堀尾氏の支城では、富田城の城下町は城の西麓の飯梨川沿いにあり、三刀屋城は三刀屋川を挟んで対岸に造られていた。しかし、両方の町は共に江戸時代前期の洪水で壊滅し、その後に近い場所に移転している。また、亀嵩城の場合は重臣の前田丹波や堀尾一族の堀尾但馬等が国境の備えとして番衆に任命されていたが、城付近に武家町が設けられたかは定かではない。町屋については城から少し離れた今の亀嵩の町並みが城下町の機能を担っていたと推定される。よって、現在、一国一城令が出された元和元年(1615)までの堀尾期の支城城下町の様子が把握できるのは赤穴瀬戸山城の城下町のみといえる。
以下、赤穴瀬戸山城とその城下町を概観して、城が置かれた歴史的背景にも触れてみたい。
【図1】出雲国・石見国・隠岐国の城郭位置図
2.赤穴瀬戸山城
この城は広島県との境にある赤名峠より国道54線沿いに北側に5キロメートルほどの所に位置する瀬戸山(標高631メートル)に築かれている【写真1】。
【写真1】赤穴瀬戸山城の遠望(手前は国道54号線)
城史
南北朝期の永和3年(1377)、赤穴荘の地頭職に補されて、赤穴氏を名乗った佐波常連が築城したと伝わる。赤穴瀬戸山城は赤穴氏にかかる城ではあるが、詳細なことは分からない。史料に現れるのは戦国期であり、特に尼子氏の富田城攻めの時である。天文11年(1542)には周防の大内義隆が、永禄5年(1562)には安芸の毛利元就が瀬戸山城を攻めている。
関ヶ原の戦い後、赤穴氏に代わって、堀尾氏の重臣松田左近吉久が支城主として入る。
松田氏は近江国の出身であり、豊臣秀吉に仕え、その後に堀尾氏の家臣となっている。また、その息子も吉晴の娘婿となり、堀尾姓が授けられ堀尾因幡と称した。石高は家中ナンバー2の4900石である。(春光院蔵「出雲・隠岐堀尾山城守家中給料知帳」)
しかし、元和元年の一国一城令に基づき、大規模な破城を受けている。特に、城の西側にある街道から見える部分の石垣を中心に崩されている。なお、堀尾氏の支城では富田城と三刀屋城も共に破城になっている。
城郭の構造
堀尾氏は中世の山城である武名ヶ平城の西尾根の先端部の瀬戸山に大きく手を入れて、尾根上に10程の郭を造り、東西約400メートル、南北約200メートルの規模の山城にしている。主郭からは銀山街道や赤名の町が見下ろせる。瀬戸山の尾根を加工して主郭をはじめとする多くの郭を配置し、堀切を随所に設けている。また、主郭を中心として周囲の郭にも石垣を高く積むなど、近世の城郭に改変し、今でも郭の入口にある門跡や石段などは数箇所で確認できる【写真2】【図2】。
全国的にみると、同時代の石垣をもつ城には瓦葺き建物が多く造られている。赤穴瀬戸山城には無かったようであり、これまで瓦は全く発見されていない。よって、城内の建物は板葺きの可能性が高い。
【写真2】赤穴瀬戸山城の主部石垣と石段
【図2】赤穴瀬戸山城跡概要図(中井均氏作図)
赤名の町並みから瀬戸山への登城路は複数存在している。その一つである城の西側山麓の赤名小学校からの路沿いには複数の加工段や広い平坦面が存在し、大手口にあたると考えられる。さらに、下方の小学校敷地は明治期の切図を見ると、広い方形の区画になっており、城館が置かれていた場所の可能性が高い。また、同じ段丘の南側には方形の小さな区画が続く。『赤名村誌』(昭和7年刊)所収「藤鈞城付近警備之古跡」には、山頂の城跡部分に「本丸」、「二の丸」と書かれており、麓部分の町並みの東側には「三の丸」と「侍屋シキ」とある。「三の丸」とあるのは小学校の敷地一帯であり、この場所には前記のように城館があったと推定される。
3.赤穴瀬戸山城の城下町
赤名の城下町は今の赤名の町並みと重なり、城と神戸川(赤名川)や国道54号線とに挟まれた細長い段丘上に立地する。町の中央部には山陰と山陽を結ぶ幹線道路が走り、町並みの北端で二本に別れ、出雲街道と銀山街道となる。中世には石清水八幡宮の荘園が置かれ、出雲八所八幡の一つである赤穴八幡宮も町の西方に鎮座している。また、国境に近く、古来より陰陽を繋ぐ要衝地でもあった。
戦国期には、今の赤名の町並から北西に1キロメートル程行った銀山街道沿いに古い市町が存在した。現在その場所は「古市」と呼ばれ、明治期の切図を見ると道に面して両側に間口が狭く、奥行が長い短冊状の地割り認められる。慶長期(1596~1615年)に火事で町の全体が焼失したが、現地では町の再建はされず、赤名の城下町に取り込まれて、新しい城下が形成されたと伝わる【図3】。
【図3】赤穴瀬戸山城跡位置図(図の上方に古市がある)
武家屋敷
武家地跡は町並みの東側の一段高い山裾で、赤名小学校の南に隣接する平地を推定している。山城の西麓にあたり、今の「上市」の東側の一部と考えられる。城への登城道も近くにあり、明治期の切図【図4】を見ると、字名は「殿町」と呼ばれていた。この「殿町」は南の水田(今は盛土されて赤名団地となっている)にも細長く広がり、切図や古地図の地割を見ると方形の区画が複数確認できる。前記の絵図「藤鈞城付近警備之古跡」【図5】には、この場所は「侍屋シキ」と書かれている。江戸初期の堀尾氏が支配していた頃には、小学校敷地が居館であり、その南側の山裾一帯が武家屋敷になっていたと思われる。
【図4】下赤名村の切図(飯南町提供)
【図5】赤穴瀬戸山城附近警備之古跡図(『赤名村誌』昭和7年刊)
寺院
寺院については小さい町並みであるが、東側の「中市」・「下市」の丘陵裾に六箇寺存在し、すべてが町並みに並行してほぼ一列に並んでいる。多くの寺は江戸時代以前の開基であり、参道を小路に組み込んでおり、町の形成に併せて寺院が置かれたと考えられる。なお、戦時には寺院は防御施設として使用されるので、当初から計画されていたと推定される。
町屋
町並みは神戸川に平行して南北に延びる道路を挟んで、両側に町屋の建物が並ぶ両側町であった【写真3】。この町並みは南から「上市」、「中市」、「下市」と呼ばれている。中世の市町が城下町の基になった名残りであろう。また、町の中央北よりの「中市」と「下市」との境付近が人為的に屈曲している。これについては、城下町によくある、道をクランク上にして見通しを悪くする「遠見遮断」とも考えられるが、城下町の建設時に、下市の東側の町屋の敷地の奥行を長くするためのものとの説もある。
町家は、間口が数メートルのものが多いが、奧行は10メートル以上あり、奥に細長い。また、屋敷の平面プランも短冊型を呈している。現在の家屋も多くが奥に長く、近世の町屋構造がよく踏襲されている【図6】。
【写真3】赤名の町並み(南より見る)
【図6】赤名城下町の地形図(飯南町提供)
4.支城としての赤穴瀬戸山城
赤穴瀬戸山城と城下町について概略を述べてきた。最後に、この城がもつ関ヶ原の戦い直後における隣接する石見国と備後国との関りを見てみたい。
まず、西隣りの石見国の場合については、西南端の鹿足郡の津和野城に防長の毛利氏への押さえであり、坂崎出羽守直盛が3万石で配置されている。その他の大部分の郡は幕府御料(天領)となり、大森奉行の大久保長安に支配が任せられた。石見銀山がある邇摩郡大森には、天領で唯一の城である山吹城が存在するが、津和野城と同様に支城をもたなく、軍事面では手薄な国であった。銀山街道が城下を通る赤穴瀬戸山城は幕府にとっても重視し、銀山街道等整備をいち早く行ったと推定される。それを物語るものは、堀尾氏がその後、街道から見える石垣を中心として破城を徹底的に行なっている。
一方、南の備後国については安芸国を含め49万8000石の領地を、福島正則が治めることになった。正則は広島城を本城とし、交通の要衝や国境近くの6城を支城に選び、一族や重臣を城主として配置した。具体的に、亀居城(大竹市)、三原城(三原市)、鞆城(福山市)、神辺城(福山市)、五品嶽城(庄原市)、尾関山城(三次市)である。なお、亀居城の築城については幕府から警戒されて、福島氏は慶長14年(1609)に廃城にしている【図7】。
【図7】寛永10年の国絵図(安芸国・備後国)に示された居城と古城位置図
この中で、赤名の城と対峙する支城は三次の尾関山城(標高202メートル)である【写真4】。三次盆地北側の江の川沿いに位置し、重臣の尾関正勝が築いたとされる山城である。唯、石垣はなく、防御力は弱く、緊急時には背後にある三吉氏が築いた比熊山城(標高332メートル)を利用することも意図されていたのではと言われている。この城を重視していたと考えられるのは、勇将で知られる尾関正勝を置いたことによる。当時、正勝は2万2000石の大身であり、また、直参の家臣である与力30人を抱えていた。
【写真4】尾関山城跡(中央の小高い山)遠景、手前に江の川が流れ、背後には比熊山城跡がある。
これに対し堀尾氏も備後からの攻撃に備え、国境の赤名の守りを重視し、重臣の松田左近吉久を赤名に置いた。吉久は近江国の出で、若い時期には豊臣秀吉に仕え、その後に堀尾吉晴に仕えた武将といわれる【写真5】。また、息子の因幡も重臣の一人となり、吉晴の娘を娶り、堀尾の姓を下賜されている。
【写真5)松田左近吉久の墓塔
赤名から三次にかけての国境は江戸時代初めの関ヶ原の戦いから大坂夏の陣までの15年間は、堀尾氏と福島氏にとっては軍事的に緊張地帯となっていたと推定される。このような状況下、松田左近は赤穴瀬戸山城の山頂部の石垣をもつ城郭群と山麓の居館や武家屋敷、さらには寺院等施設を利用して、藩士や松田氏の与力を配置し、防備を固めていたと考えられる。
5.おわりに
最後に、赤穴瀬戸山城の調査についても少し触れておきたい。
山頂の城郭部については著しく崩壊しており、石段、門、石垣等様子が把握しづらい。今後、城郭の測量や郭の発掘調査を行い、構造等を明確にする必要がある。また、文献・絵図等の史料(資料)の調査も城や城下町を知る上では重要である。さらに、城下町についても今も昔ながらの町並みが残されており、文献に限らず建築など含め各方面からの総合的な調査が必要になってくると思われる。
参考文献
- 『赤名村誌』島根県飯石郡赤名村1932
- 『広島県史―近世1・通史3―』広島県1980
- 後藤陽一1981『広島県史』近世1、広島県「福島正則家中分限帳」
- 『島根中近世城館跡分布調査報告書〈第2集〉―出雲・隠岐の城館跡―』島根県教育委員会1998
- 原慶三2002「「東京大学史料編纂所蔵文書」について」『研究紀要』17、島根県立三刀屋高等学校
- 『三次市史』三次市2004
- 「出雲・隠岐堀尾山城守家中給知帳」『松江市歴史叢書』1、松江市教育委員会2007
- 中井均2013「堀尾氏の出雲支配における支城について(2)―赤名瀬戸山城―」『松江城研究』2
- 松尾信裕2021『出雲の城下町・陣屋町』松江市
- 稲田信2024「幕府収納国絵図に記された「古城」―出雲国絵図を例にー」『松江城研究』5、松江市
- 小都隆2024「近世初頭の本城・支城(安芸・備後)」『松江城研究』5、松江市
- 西尾克己・藤田大輔2024「出雲国・隠岐国・石見国における近世初頭の本城・支城についてー幕府収納国絵図に記載された居城と古城を参考にしてー」『松江城研究』5、松江市
- 高屋茂男2025「瀬戸山城」『山陰・山陽の名城を歩く―鳥取・島根編―』吉川弘文館
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更新日:2025年08月08日