調査コラム

更新日:2024年05月17日

『松江市史』編纂事業が終了し、史料編纂課と松江城研究室は、令和2年(2020)4月から史料調査課、松江城調査研究室として再出発しました。さらに令和4年(2022)4月から新たに「松江城・史料調査課」となりました。今後も課でこの「調査コラム」を執筆していきます。過去の「調査コラム」「市史編纂コラム」は以下のリンク先をご覧ください。

第42回

松江市の徽章(きしょう)

(松江城・史料調査課歴史史料専門調査員/高橋真千子/2024年5月17日記)

はじめに

みなさんは、松江市の徽章をご存知ですか?市営バスやウェブサイト、広報などにも掲載されていますので、ご覧になったことがあるかと思います。今回は、特にお問い合わせの多い松江市の徽章制定の経緯について記述します。

現在の徽章は、旧松江市と鹿島町、島根町、美保関町、八雲村、玉湯町、宍道町、八束町が合併した平成17(2005)年3月31日に、旧松江市の徽章を引き継ぎ制定されたもので、「松」の字を公木とくずし、これを図案化するとともに、城址亀田山にちなみ、外郭は亀田、中は松葉を意味しています。

詳しくは松江市ウェブサイト「徽章(市章)」をご覧下さい。

この徽章は、市制施行10年目にあたる明治31(1898)年12月24日に制定されました。きっかけとなったのは、松江商業会議所が前年12月6日に松江市長福岡世徳(つきのり)宛てに提出した「松江市徽章創定の件建議」です。明治30年12月1日付の『山陰新聞』に、建議の全文が掲載されていますので見てみましょう。

昔から、家(商家)に紋章や商標があり、それを表示することにより、一家の名を広め、かつ貨物の信用をつないでいた。旧松江藩においても名産の人参・木綿・木蝋等を大阪や長崎に輸送する時、必ず藩の商標を掲示していた。それゆえ、需要者は、商標を見て荷物が整い揃っていることを疑わなかった。最近は、大阪市が徽章を定めて市民に便益を与え、商店は市の徽章と自家の商標を表示して地方に貨物を搬出している。文字を書かずに大阪市の商店であることを人に知らしめようとしている。我が松江市には、まだ一定のものはなく、時に松江市を表明する上で支障がある。市の徽章が公私に効用があるのは当然であるが、将来発達するであろう工業製品に用いれば、自然の結果として松江市を繁栄させるだろう。

(筆者意訳)

このように徽章創定の理由を説明した後、商業会議所は市民の世論を参酌する方法として、

  1. 徽章を懸賞付きで公募すること
  2. 複雑な形ではなく、最も人目を惹くものを市会で決定すること

を希望しています。議会でどのような議論になったかは不明ですが、実際にこの手順で徽章を定めることとなり、翌31年6月から、8月31日を締め切りとして公募がはじまりました。明治31年9月4日付の『山陰新聞』は、最終的に130名あまりの応募があったことを報じています。懸賞金は1等が15円、2等が5円(『山陰新聞』では10円)。明治30年に制定された正教員の一番低い給与額が8円ですから(『島根県近代教育史』第1巻)、結構な額だったのではないかと考えられます。

こうして公募された徽章は、同年11月の市会で審査され、1等が「千鳥」、2等が「松皮菱に水」と決定します。しかし、この二つは市の徽章としては適当でないとし、福岡市長は別案として「勾玉の双体」を採用することとしました(『山陰新聞』明治31年11月26日)【図1】。「勾玉の双体」の採用については、「勾玉は我が国の古代の装飾品であり、出雲国はとても著名な産地であること」や、「出雲は古国であり松江はその中心都市であることを想起させる。この事を内外に顕彰したい」と、市会でも賛成多数だったといいます(『山陰新聞』明治31年11月26日付、「松江市会決議録」明治31年第14号)。

『山陰新聞』(明治31年11月26日)に掲載された勾玉の徽章案

【図1】『山陰新聞』(明治31年11月26日、島根県立図書館蔵)に掲載された勾玉の徽章案

ところが、11月29日付の『山陰新聞』で、松江市出身の彫刻家・荒川亀斎や「大学医学部の教師ワクネル氏」の言を用い、勾玉が出雲の名産であることは、「『工芸志科』にも見える」ほど知られていることや、勾玉は動物の胎生や種の形であり、往古の人もそれを尊んで身に着けていたものであるため、実業の振興と事業功績の発揚のために用いるのはいかがなものか、と異論が示されます。市民がどれほどこの異論に賛同したかは不明ですが、市会は議員の中から調査委員として桑原羊二郎、森脇新兵衛、金沢伝十郎、清原宗太郎、川岡清助の5名を選び、再度徽章を選定することとしました(『山陰新聞』12月11日付)。

幾度かの審議を重ね、調査委員会は12月20日の市会に「松字」と「山の字形」の案を提出します。そこで、調査委員会が最も適当だとして推薦した「松字」が、満場一致で可決され、先に当選していた「千鳥」・「松皮菱に水」は落選。改めて1等が「松字」(当選者:松本タケ)、2等が「山ノ字形」(当選者:山内乙次郎)となり、同日「松字」が市の徽章として定められました(『山陰新聞』明治31年12月22日付、「松江市会々議録」第17号)。

それから42年が経過した昭和15(1940)年、2月13日の『松江市公報』第264号に、「本市徽章の由来」という小さな記事が掲載されました【図2】。ここには、「考案者は書道の心得ある金沢伝十郎氏の由」と書かれています。前述の通り、金沢伝十郎は当時の市会議員であり、徽章を選考した調査委員のうちの一人です。実は、公募した図案には1点ごとに号数(番号)が振られており、当選した「松字」には「118号の3」という番号が与えられていました。また、『山陰新聞』(明治31年12月22日付)でも、委員会で亀の形に修正したことが書かれています。おそらく、118号の「松字」では徽章としては不十分だったため、調査委員会で金沢伝十郎を中心としていくつか案を作成し、亀田山の意味も込めた「118号の3」を正式な案として市会に提出、可決されたと考えられます。

『松江市公報』第264号(昭和15年2月13日)

【図2】『松江市公報』第264号(昭和15年2月13日、島根県立図書館蔵)

126年前、松江市の発展を願って定められた徽章。今後も市のシンボルとして在り続けることでしょう。

  • 協力者:当課学芸員 面坪紀久、行政専門員 木谷有里

この記事に関するお問い合わせ先

文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
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