調査コラム2

更新日:2024年04月09日

令和2年(2020)4月から史料調査課(令和4年4月から「松江城・史料調査課」)の職員が書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」も5年目を迎えました。令和6年4月からは新たに外部執筆者にも担当いただきます。今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。

過去の「調査コラム」「市史編纂コラム」は以下のリンク先をご覧ください。

第42回

史料と記録

(客員研究員/稲田信/2024年4月9日記)

私事だが、昭和54年(1979)に島根大学(法文学部歴史学教室)に入学すると、よく分らないうちに出雲部出身者(木次町)ということで「出雲考古学研究会」の会合に呼ばれ、『宍道町埋蔵文化財調査報告2―地域と古墳と磨崖仏―』【写真1】の編集の手伝いをすることとなった。「地域と古墳と磨崖仏」という題名に不思議なものを感じながらも、地域に所在する遺跡(史料)を調査することで、地域の歴史を明らかにし、成果を書籍(記録)として地域の皆さんに還元していくという姿勢を、ゆっくりと刷り込まれていったように思う。

『宍道町埋蔵文化財調査報告2―古墳と地域と磨崖仏―』表紙

【写真1】『宍道町埋蔵文化財調査報告2―地域と古墳と磨崖仏―』

出雲考古学研究会は昭和53年(1978)の天神遺跡(出雲市)の発掘調査を契機に研究会活動を始め、平成19年(2007)に解散した。機関誌創刊号『古代の出雲を考える:天神遺跡の諸問題』【写真2】序文では、官民総ぐるみでの開発事業が進む中、注目もされず失われていく遺跡を前に「そうせざるを得ない現実」が活動の動機だったと述べている。遺跡の調査をとおして地域の歴史を明らかにしようと活動は続き、成果はその都度機関誌『古代を考える』にまとめられた。池田満雄先生、西尾克己さん、大國晴雄さんらの名が初期の名簿に載る。

活動の広がりとともに、他大学で学ぶ島根県出身者や島根大学生など、多くの若い人たちが参加したのだが、後に各地の文化財保護行政に携るようになった者も多い。機関誌による考古学的成果のみならず、地域の歴史にこだわる姿勢は参加者に影響を与えていた。

『古代を考える:天神遺跡の諸問題』表紙

【写真2】『古代の出雲を考える:天神遺跡の諸問題』

昭和59年(1984)、私は縁あって宍道町教育委員会の職員となっていた。机の脇には『宍道町埋蔵文化財調査報告2―地域と古墳と磨崖仏―』が数冊置いてあり、自分の名前が記されているのも奇妙な縁だと感じたものである。

ちなみに、黎明期の出雲考古学研究会は宍道町とつながりを持っていた。昭和51年(1976)に宍道町東来待の松石古墳群が発掘調査されるが、調査担当者の西尾克己さんをはじめ、後の出雲考古学研究会のメンバーが多く 参加している。島根・鳥取県の約100基の石室を実測し、『石棺式石室の研究』に結実させた出雲考古学研究会だが、最も古い石室実測図は宍道町東来待の「鏡北廻古墳(1977年3月1日実測)」である。また、私が最初に関わった『宍道町埋蔵文化財調査報告2』の発行も、西尾さんたちが宍道町教育委員会に働きかけ実現したものだった。

宍道町教育委員会で文化財保護や蒐古館(博物館)に携わるようになると、普段の業務をとおして地域の様々な歴史情報に接するとともに、新たな調査も行うようになった。分野も考古、歴史、民俗、美術工芸、自然環境など、複合的で幅広いことに素直に驚いた。やがて、得られた情報は組織や担当者個人の中で貯えておくのではなく、積極的に地域の皆さんに還元しようと思うようになった。

以来、宍道町では約20年にわたり地域の歴史を明らかにする活動に取り組むことになるのだが、大学生時代に出雲考古学研究会で経験した、地域の歴史にこだわる姿勢と、調査成果を書籍として地域に還元する手法を試み続けていたように思う。1992年にイギリスに3か月間ほど短期留学(CLAIR国際塾)させてもらい、暮らしの中に歴史や文化財を大切にする様子を見たことも、地域の歴史のこだわる姿勢に自信を持たせてくれた。

史料調査と書籍の発刊にあたっては、出雲考古学研究会や大学生時代に知り合えた皆さんに多大な協力をいただけたし、宍道町と地域の皆さんには、私の無理な願いにも辛抱強くつきあっていただいた。『宍道町ふるさと文庫』21冊、『宍道町歴史史料集』5冊、『宍道町歴史叢書』8冊、『宍道町史』3巻【写真3】、『古文書史料目録』2冊、編集に関わった民間出版物12冊、『埋蔵文化調査告報告』5冊、『来待ストーン研究』9冊、その他行政刊行物など、携わった70冊あまりの宍道町での書籍(記録)をとおして、古墳と磨崖仏を含めた宍道町域の様々な歴史事象も少しずつ明らかになっていったのだと思う。

『宍道町史』3巻

【写真3】『宍道町史』3巻

行政的な地域設定は、平成17年(2005)の松江・八束市町村合併によって大きく変わり、私は広域化した松江市教育委員会の職員となった。

宍道町では宍道町史編纂事業を平成16年(2004)秋に終えたところだったが、2年間の市教育委員会宍道分室勤務を終え、平成19年(2007)4月に市教委文化財課に着任すると、ちょうど「松江開府400年祭」が始まり、松江市史編纂事業を立ち上げる仕事が待っていた。同時に、合併により宍道町の事業を継承した『松江市ふるさと文庫』【写真4】、『松江市歴史叢書』、『松江市歴史史料集』の編集・発刊の仕事も待っていた。合併した新松江市でも、地域の歴史にこだわる姿勢と、調査成果を書籍(記録)として地域に還元する手法が継続できるよう、用意されていたのである。

平成19年4月は、大学での恩師であり、宍道町史編纂事業を先導していただいた井上寛司先生が大阪工業大学を退任され、再び松江に居を移し中世史研究に邁進され始めた時でもあった。振り返ってみると、徹底的な史料調査と書籍(記録)の発刊を旨とする松江市史編纂事業のあゆみは、私の松江市での仕事とほぼ重なっている。

これまでに刊行された『松江市ふるさと文庫』

【写真4】これまでに刊行された『松江市ふるさと文庫』

ところで、平成19年4月に宍道町を離れ松江市役所内の文化財課に着任し最初に感じたことだったが、市の文化財行政へは市役所内だけではなく歴史に詳しい有識者からも冷ややかな視線が注がれていた。が、そのことは、当時の福島律子教育長、友森勉理事から繰り返し語っていただいた市史編纂事業に対する強い期待感につながっていたように思う。

私の思い込みかもしれないが、松江市史編纂事業が着実に進み、松江市史講座やふるさと文庫の刊行などにより、最新の歴史像が松江市民の皆さんに提供され続けたことで、地道な調査研究を通して地域の歴史を明らかにしていくことの重要性が徐々に認められていったと感じている。史料調査と研究の成果が平成27年(2015)の松江城天守国宝指定【写真5】につながったことは大きかった。市役所内外からの市文化財行政への視線は文化財課に着任した平成19年に比べて確実に温かく、史料の調査研究や書籍(記録)の出版環境も整ってきたように思う。

現役退職を前に関わった、(1)松江市文書館(仮称)、(2)文化財保存活用地域計画、(3)文化財系職員人財育成プログラム、(4)埋蔵文化財調査体制の変更(埋文本調査の直営化)についても、後戻りすることなく徐々に動き始めている。

平成27年(2015)の松江城天守国宝指定

【写真5】平成27年(2015)5月15日、文化審議会の松江城天守国宝指定答申当日の様子

再任用職員として、気づけば3年間を過ごさせていただいたが、最後の年に、現役退職まで仕えた松浦正敬前市長の回顧録『松江市政20年―歴史と文化、水辺を活かしたまちづくり―』【写真6】の編集に携わらせていただいた。私は、前市長の顔をいつも見るような身近な場所で働いたことはなかったが、回顧録で、「20年かかってたどり着いた結論は、『歴史、文化を活かす』でした。」と述懐されたように、20年余りを松江市政のトップであった前市長とは(或いは市民の意向とは)、近い立ち位置で仕事が出来ていたのだと、改めて実感できるようになった。「松江市史編纂事業の完結」や「文化財行政への温かいまなざし」ということも、松江市政の流れの中で、うまくかみ合みあった結果なのかもしれない。

『松江市政20年―歴史と文化、水辺を活かしたまちづくり―』表紙

【写真6】『松江市政20年―歴史と文化、水辺を活かしたまちづくり―』

松江市役所で過ごした20年近くの変化には少し感慨深くもあり、地域の歴史にこだわる姿勢と調査成果を書籍(記録)として地域に還元する手法は、多くの方のご賛同やご協力を得ながら、着実に成果に繋がっていったのだと思う。

今後どう展開していくのか、文化財行政への期待感がしぼまないよう、陰ながら見守りたい。


(宍道町史編纂事業と松江市史編纂事業の経緯等については、『プロジェクトS―宍道町史をつくった人々と支えた人々―』、『松江市史編纂のあゆみ』、『松江の歴史コラム』に記させてもらいました。)

この記事に関するお問い合わせ先

文化スポーツ部 松江城・史料調査課
電話:0852-55-5959(松江城係)、0852-55-5388(史料調査係)
ファックス:0852-55-5495
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