調査コラム2

更新日:2025年06月02日

令和2年(2020)4月より書き継いできたこの「調査コラム~史料調査の現場から」、この度、50回を迎えました。今後もご愛読よろしくお願いいたします。ご意見、ご感想は末尾のお問合せフォームからお送りください。

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第50回

村田寂順と貴志寂忍―松江東照宮跡に建つ石碑「東照宮遺址」から―

(稲田信/松江市客員研究員/2025年5月30日記)

今では知る人も少なくなった村田寂順と甥の貴志寂忍は、ともに、明治期の仏教界で活躍した僧侶です。松江東照宮跡(現・松江市立皆美が丘女子高等学校敷地)に建つ石碑「東照宮遺址」をとおして、二人を紹介してみましょう。


話は約400年ほどさかのぼります。寛永5年(1628)、藩主堀尾忠晴により、島根郡西尾村(松江市西尾町)の湖水に面した高台に東照大権現御宝殿(松江東照宮)が建立されました。また、東照宮を管理するための別当寺として、天台宗東叡山寛永寺末・照高山圓流寺が置かれました。山号・寺名は徳川家光が滋眼大師天海に命じて撰び、授けたといいいます。

明治時代になると、東照宮、圓流寺は松江藩の庇護を失うとともに、維新政府の神仏分離政策により、神仏習合的実態も変更を余儀なくされるようになります。やがて、東照宮の維持は難しく、明治31年(1898)11月に西川津村楽山に建つ楽山神社に合祀されました。さらに、明治32年に楽山神社が松江城山内に遷ることになると、東照宮の旧社殿も城山内に移され、名称を変えた松江神社の社殿(本殿)となりました。

明治34年(1901)5月1日、西尾村の東照宮跡地に、公爵二条基弘による題額(「東照宮遺址」)と、前天台座主妙法院門跡探題大僧正寂順による撰文を刻む石碑が建立されました【写真1】【史料】。

石碑「東照宮遺址」

【写真1】石碑「東照宮遺址」(稲田撮影)

【史料】「東照宮遺址」碑文

【原文】

東照宮遺址

照高山圓流寺東照宮者寛永中出雲国主堀尾忠晴所創属東

叡山大将軍徳川家光公命慈眼大師撰山号寺名以授之焉松江藩祖松

平直政移封于此更広規模給禄三百二十石祠廟厳翼堂宇輪奐

大政復古禄廃地削明治庚子毀東照宮祠移於城山祭藩祖之霊曰

松江神社東照宮配焉而以其旧址更入寺中里人惜事蹟将堙滅胥

謀建碑於其地介現董僧正寂忍請文於余此社為一藩宗祀以鎮護

封土者二百五十年矣而今廃替如此是可慨焉且此寺為我得度之

地豈嘗忘於懐哉深喜里人不忘旧誼用心維持為記其事

     明治三十四年五月一日

          従二位 公爵 二条基弘 題額

          前天台座主妙法院門跡探題 大僧正 寂順 撰文

                  瑞光山覚善現董教三書

(碑文は縦書き。風化のために判読できない文字は『八束郡誌』(1926)、『松江市誌』(1941)により補填した。異体字は通常の字体に、旧字は新字に改めた)

 

【読み下し】

照高山圓流寺東照宮は、寛永中出雲国主堀尾忠晴の創る所、東叡山(寛永寺)に属す。大将軍徳川家光公慈眼大師(天海)に命じて山号寺名を撰び、以て之を授く。松江藩祖松平直政此に封を移し、更に規模を広げ、禄三百二(五カ)十を給す。祠廟厳翼、堂宇輪奐。大政復古、禄を廃し地を削り、明治庚子(33年)、東照宮祠を毀し、城山に移し、藩祖の霊を祭る。曰く松江神社、東照宮を配す。而して其の旧址を以て更に寺中に入れる。里人事蹟将に堙滅せんとするを惜しみ、胥(皆)謀りて碑を其地に建てる。現董僧正寂忍を介し、文を余に請う。此社一藩宗祀と為し、以て鎮護封土は二百五十年。而して今廃替すること、此の如し。是、慨く可し。且つ此寺我が得度之地となす、豈嘗て懐しみを忘れん哉。里人の旧誼を忘れず、心を用いて維持するを深く喜ぶ。為に其の事を記す。


撰文者の大僧正寂順(村田寂順)は、松江城下北田町に住した藩士村田久助正道の三男として天保9年(1838)7月に誕生します。寂順は、弘化3年(1846)に9歳で圓流寺に入り、10歳の時に心海阿闍梨(圓流寺第19世)について圓流寺にて得度しました。

『松江藩列士録』第4巻(島根県立図書館2005)によれば、村田家初代伝右衛門は越前大野で松平直政に召し抱えられ150石を給されていましたが、寂順の父12代久助、家督を継いだ兄13代豊助は20石五人扶持が家禄でした。

久助は長子豊助に家督相続し、三男寂順と四男泰良を出家させます。さらに、豊助は次男寂忍を出家させ、寂忍は叔父寂順の弟子となります。明治6年(1873)作図の「沽券台帳」(地籍図)には、田町にあたる六百七十九番に「村田豊助 九十九坪弐合」の屋敷地が確認できます【写真2】。

「沽券台帳」に記載された村田豊助屋敷地(写真中央)

【写真2】「沽券台帳」に記載された村田豊助屋敷地(写真中央)

幼い日を圓流寺で過ごした寂順は、安政5年(1858)に鰐淵寺本覚坊の住職となり、明治維新を迎えると、廃仏毀釈の嵐の中で危機的な状況になった本山延暦寺を救おうと立ち上がり活躍します。明治29年(1896)には、天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する天台座主第236世にのぼります。妙法院門跡第42世にもつき、明治38年(1905)3月、京都で亡くなりました(『明治百年島根の百傑』など)。

石碑「東照宮遺址」の碑文には、「此社為一藩宗祀 以鎮護封土者二百五十年矣 而今廃替如此 是可慨焉 且此寺為我 得度之地 豈嘗忘於懐哉」とあります。得度の地である圓流寺は、寂順にとって忘れることが出来ない懐かしい場所でした。「深喜里人不忘旧誼 用心維持」ともあり、時代の転変の中で東照宮を維持してきた里人への感謝の気持ちが深く刻まれています。

石碑建立のいきさつについては、「里人惜事蹟将堙滅 胥謀建碑於其地」「介現董僧正寂忍請文於余」とあります。東照宮の移転を惜しむ里人の発案により、寂順の撰文は圓流寺の現董(現在の住職)となっていた貴志寂忍が依頼したことが分かります。そして寂順の撰文を碑文用に書いたのは、末尾にある「瑞光山覚善現董教三」、すなわち同じく天台宗の名刹である安来の清水寺塔頭覚善院の住職である永井教三でした。

前述のように、貴志寂忍は寂順の甥(実兄村田豊助の次男)であり、弟子でした。寂順が亡くなる直前の明治37年(1904)11月には、他の弟子たちとともに寂順の事蹟集である『隨縁迹』をまとめ上げています【写真3】。

『随縁迹』に載る村田寂順肖像

【写真3】『随縁迹』に載る村田寂順肖像

貴志寂忍等編1905『随縁迹』巻上、妙法院門跡事務所(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/819486)

明治30年頃、寂忍は圓流寺住職に就きます。住職に就くと、寺の荒廃を嘆き旧観保存(整備)のために「照高山保存会」を興し、圓流寺の再興に努め、3000円の募金を募りました。募金を呼びかけた「照高山保存募縁叙」【写真4】と「延暦寺兼妙法院門跡大僧正邨田寂順添状」【写真5】という史料(刷物)が圓流寺に伝わっています(『松江神社建物調査報告書』史料3、4)。また、記念の品として作成されたと思われる圓流寺の景観を描く扇子なども伝わっています【写真6】。寂忍の動きは師であり叔父である村田寂順も強く支援をしていました。寂順名の添状では、旧藩主松平直亮伯爵の賛同があることや、自身の圓流寺に対する深い思いを記し、募金を求めています。

寂忍による旧観保存活動の詳細は明らかではありませんが、明治43年(1910)に松平直亮夫妻が圓流寺に参拝しており、整備はある程度進んだものと考えられます。

「照高山保存募縁叙」

【写真4】圓流寺旧観保存(整備)のための「照高山保存募縁叙」(圓流寺蔵)

「延暦寺兼妙法院門跡大僧正邨田寂順添状」

【写真5】圓流寺旧観保存(整備)のための「延暦寺兼妙法院門跡大僧正邨田寂順添状」(圓流寺蔵)

記念の扇子

【写真6】「照高山圓流寺略図」扇子(圓流寺蔵)

東照宮が明治31年(1898)11月に楽山神社に合祀され、翌年に東照宮の旧社殿が松江城山内に移築され、松江神社が創建されるという一連の出来事は、各界に影響力を持っていた寂順晩年期の出来事です。寂忍の圓流寺住職着任や旧観保存(整備)の動きには、寂順の意向もあったのでしょう。

しかし、寂順は明治38年(1905)に京都で没します。寂忍も明治44年(1911)に圓流寺から転出し、信濃国善光寺副住職を勤めた後、京都二尊院や方広寺に住持し、大正6年(1917)に亡くなります。寺勢の衰えは決定的となりました。

昭和時代になっても東照宮跡、圓流寺に残っていた建物群も、その後各地に移転し、現在の皆美が丘女子高校敷地に、かつての面影は残っていません。「東照宮遺址」の碑文からは、昔日の東照宮、圓流寺を知る寂順、寂忍たちの深い思いが伝わってきます。

参考文献
  • 貴志寂忍等編1905『随縁迹』巻上、妙法院門跡事務所
  • 島根県教育委員会編刊1968『明治百年島根の百傑』
  • 奈良文化財研究所編2021『松江神社建造物調査報告書』松江市

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